中江 兆民

なかえ ちょうみん(Nakae Chomin)

中江 兆民の肖像
中江 兆民の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1847-12-08 〜 1901-12-13
時代明治
分野文化人
墓所区画1種イ1号24側
タグ自由民権運動 / 東洋のルソー / 思想家 / 土佐藩

「東洋のルソー」 — 自由民権運動の理論的支柱

中江兆民は、明治期日本において「東洋のルソー」と呼ばれた思想家である。フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』を漢文に翻訳して『民約訳解』(1882 年)を刊行し、自由民権運動の理論的支柱を作った。

明治初期の日本は、欧米の自由思想の中身を理解しないまま「自由」「民権」を叫んでいた状態だった。兆民は、ルソーの社会契約論を漢文の精度で読み解き、「主権は人民にある」「政府は人民の信託で成り立つ」という思想を、福澤諭吉の啓蒙書とは別の知的水準で日本社会に持ち込んだ。彼の翻訳と論評がなければ、自由民権運動はもっと単純な「政府への不満」運動で終わっていた可能性が高い。

代表作『三酔人経綸問答』(1887 年)は、洋学紳士・東洋豪傑君・南海先生という三人の架空人物の問答という形式で、進歩主義・侵略主義・現実主義の三つの国家路線を冷徹に並べ、対話的に検討した政治思想書。「明治の最も鋭敏な政治哲学書」として、現代の政治思想史でも繰り返し読み返されている古典である。

そして明治 34 年(1901 年)、咽頭癌により余命 1 年半と宣告された後、兆民は最後の力で『一年有半』『続一年有半』を書き上げた。無神論・唯物論を平易な日本語で論じたこの遺著は、日本初の本格的な唯物論書とされ、当時の日本社会でベストセラーとなった。死の床で書かれた哲学書がベストセラーになるという、思想史的にも稀有な事件だった。同年 12 月 13 日、東京で死去。享年 54。

弟子・幸徳秋水(大逆事件で処刑された社会主義者)が『兆民先生』を書いて師を追悼したように、兆民の思想は明治後期の社会主義運動・無政府主義運動へと受け継がれた。自由民権の挫折を超えて、明治後期の左翼運動の源流となった人物である。

土佐の足軽、リヨンとパリへ

弘化 4 年(1847 年)、土佐国高知城下に土佐藩足軽の家に生まれる。本名は篤介(篤助)。「兆民」は号で、「億兆の民の一人」の意である。家格は低かったが、漢学と語学に異才を示し、長崎・江戸でフランス語を学んだ。

明治 4 年(1871 年)、岩倉使節団に随行する形でフランスに留学。リヨン・パリで 3 年間学び、ルソー・モンテスキュー・コンドルセらの啓蒙思想を吸収して帰国した。同時代に欧米留学した日本人は多いが、フランス思想の核心を漢文の精度で消化して帰国したのは兆民が唯一に近い。

仏学塾 — フランス思想を漢文で伝える

明治 7 年(1874 年)、東京に仏蘭西学舎(後の仏学塾)を開いてフランス思想・フランス語を教授。明治 14 年(1881 年)に元老院書記官を辞して以降は、官途を完全に離れて在野の思想家として活動した。「政府の官途で出世するか、自由を語って民衆に届くか」 — 兆民は迷いなく後者を選んだ。

明治 15 年(1882 年)、『民約訳解』を刊行。ルソー『社会契約論』の前半部を漢文に翻訳し、漢学素養のある当時の知識人に向けて、近代政治思想の核心を提供した。「主権在民」 — この言葉が日本の政治語彙として定着したのは、兆民の翻訳が出発点である。仏学塾からは、後の社会主義者・幸徳秋水ら次世代の思想家が育っていった。

『三酔人経綸問答』 — 三人の酔人が日本を論じる

明治 20 年(1887 年)、代表作『三酔人経綸問答』を刊行。架空の三人 — 洋学紳士(理想主義・平和主義)、東洋豪傑君(侵略主義・国権論)、南海先生(現実主義・漸進主義) — が酒を酌み交わしながら、当時の日本が取るべき進路を論じる形式の政治思想書である。

各登場人物は当時の日本の三つの実在の潮流を代表しており、兆民自身は南海先生に最も近いが、洋学紳士の理想と東洋豪傑君の現実主義もそれぞれ説得力をもって描かれる。「答えを一つに決めず、対立を対立として正面から扱う」という思考スタイルは、日本の政治思想史の中でも稀な達成で、現代政治哲学の入門書としても通用する古典である。

衆議院議員、そして辞職

明治 23 年(1890 年)の第 1 回衆議院議員総選挙で、大阪 4 区から立憲自由党公認で当選。だが土佐派(板垣退助系)が政府との妥協に傾く中、兆民は抗議の意を込めて翌年議員を辞職した。「無血虫の陳列場」 — 議会を諷した兆民の辛辣な発言は、政党政治への失望を表すフレーズとして長く語り継がれた。

その後は新聞・雑誌での評論活動に専念。『東雲新聞』『自由新聞』などを通じて、自由民権思想の普及に最後まで尽力した。

余命宣告、そして『一年有半』

明治 34 年(1901 年)、兆民は咽頭癌で「余命 1 年半」と宣告される。死を見据えた兆民が書いたのが、随筆風の哲学書『一年有半』(1901 年 9 月刊)と続編『続一年有半』(同年 11 月刊)である。

『一年有半』は文明評論、『続一年有半』はより本格的な哲学論で、霊魂不滅説を否定し、徹底した唯物論・無神論の立場から「人は死ねば全てが終わる、だからこそ生きている今が全てだ」という思想を平易に説いた。死の床で書かれた哲学書が一般読者向けのベストセラーになるという、近代日本史で唯一に近い事件である。

同年 12 月 13 日、東京で死去。享年 54。宣告された「1 年半」より、実際にはずっと短い余命だった。

青山霊園に眠る

中江兆民の墓は、青山霊園 1種イ1号24側。同じ「1種イ1号」の区画には、初代文部大臣・森有礼、薩摩出身の首相・黒田清隆、旧幕府軍の指揮官・大鳥圭介、真珠王・御木本幸吉といった、明治を作った多彩な人物が眠る。

兆民の弟子・幸徳秋水は『兆民先生』(明治 35 年/1902 年)を書いて師を追悼した。「先生」と呼ばれた兆民の思想は、自由民権運動から明治後期の社会主義運動へと受け継がれていく。

墓所の位置

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参考資料

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