宮本 百合子 (1899-1951)の肖像
宮本 百合子の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

宮本 百合子

みやもと ゆりこ

Miyamoto Yuriko

17 歳で『貧しき人々の群』を発表しデビュー。投獄を繰り返しながら創作を続けた戦前最大の女性プロレタリア作家。代表作『伸子』『道標』。

生没年
出身地
東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)
死没地
東京都
時代
大正・昭和
役職
小説家
出身校
日本女子大学校英文科(中退)
区画
1種ロ8号33側
タグ
プロレタリア文学 / 女性作家 / 日本共産党 / 治安維持法 / 新日本文学会 / 中條精一郎の娘

戦前最大の女性プロレタリア作家

宮本百合子は、17 歳で文壇デビューしてから 52 歳で急逝するまで、戦前・戦中・戦後の三つの時代を作品で貫いた女性作家である。少女期に坪内逍遥に絶賛された早熟の才能、結婚と離婚を経てのモスクワ留学、プロレタリア文学への参加、共産党員・宮本顕治との結婚、治安維持法による度重なる検挙と投獄、そして戦後の新日本文学会での再起 — どの段階を取っても、近代日本女性文学の最前線に立ち続けた。

旧姓中條(ちゅうじょう)。父・中條精一郎は丸の内ビルヂング・三菱一号館などの設計に関わった建築家で、本人もまた青山霊園に眠る。文化的に恵まれた家庭に育った少女が、17 歳で発表した『貧しき人々の群』(1916 年)で農村の貧困を凝視し、坪内逍遥に「天才少女」と評されて文壇に登場した時から、彼女の関心は一貫して「持たざる人々」「抑圧される女性」にあった。

代表作『伸子』(1924-1926 年)は彼女自身の最初の結婚と離別を題材にした自伝的長編で、近代日本女性文学の到達点の一つとされる。戦後の『播州平野』『風知草』『二つの庭』『道標』は、戦中の獄中体験と戦後の希望を、夫・宮本顕治への信頼を縦軸に据えて書き継いだ大河的連作である。投獄・拷問・夫との 12 年に及ぶ離別 — そのどれもが彼女のペンを止めることはなく、むしろ作品を深化させ続けた。

早熟の才能 — 17 歳の『貧しき人々の群』

明治 32 年(1899 年)2 月 13 日、東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に、建築家・中條精一郎と母・葉子の長女として生まれる。父・精一郎は丸の内ビルヂング・三菱一号館などを手がけ、明治日本の都市景観を作った建築家の一人である。母・葉子も教養豊かで、家には文学・芸術の空気が充ちていた。

日本女子大学校(現・日本女子大学)英文科に進学するも、大正 5 年(1916 年)、17 歳の時に発表した処女作『貧しき人々の群』が、坪内逍遥に絶賛されて『中央公論』に掲載され、一夜にして文壇デビューを果たした。福島県の祖父の家に滞在中に見聞きした農村の貧困を、少女の目で凝視した作品で、当時の文壇に衝撃を与えた。彼女は大学を中退し、作家の道を選ぶ。

モスクワへ — 湯浅芳子との 3 年

大正 7 年(1918 年)、ニューヨーク留学中に古代東洋語研究者の荒木茂と知り合い結婚するが、価値観の相違から大正 13 年(1924 年)離婚。離婚の過程と心情を綴った長編『伸子』は、近代日本における女性の自立と結婚観を真正面から扱った先駆的作品となった。

離婚後、ロシア文学者の湯浅芳子と出会い、共同生活を開始。昭和 2 年(1927 年)、湯浅とともにソビエト連邦・モスクワへ留学する。3 年間の滞在中、ロシア語を学びながらソ連社会と文学を視察し、社会主義への共感を深めた。この体験が彼女をプロレタリア文学運動へと向かわせる決定的な契機となった。

昭和 5 年(1930 年)帰国、ただちに日本プロレタリア作家同盟に参加。組織の中心人物の一人となり、若い同盟員・宮本顕治と出会う。

治安維持法下の結婚と獄中

昭和 7 年(1932 年)、宮本顕治と結婚。同年、日本共産党に入党。だが時代は反対方向に動いていた。同年、当局による弾圧で多数のプロレタリア作家が検挙され、小林多喜二が翌昭和 8 年(1933 年)2 月、特高警察の拷問により築地署で虐殺される。同じ年、夫・顕治は地下活動に入り、昭和 8 年(1933 年)12 月に検挙、その後 12 年に及ぶ獄中生活に入った。

百合子自身も繰り返し検挙され、執筆禁止処分を受けながら、許される限り雑誌・新聞に発表を続けた。獄中の夫と交わした往復書簡は戦後『十二年の手紙』として刊行され、戦時下の知識人夫婦の精神的記録となっている。執筆禁止下の窒息と健康の悪化のなか、それでも筆を折ることはなかった。

戦後 — 新日本文学会と『道標』

昭和 20 年(1945 年)8 月の敗戦、同年 10 月、宮本顕治が網走刑務所から釈放される。12 年の獄中を経た夫との再会の後、百合子は爆発的な創作活動に入る。新日本文学会の創設に参加(中野重治・蔵原惟人・徳永直らとともに)、機関誌『新日本文学』を主導した。

戦後 5 年あまりで『播州平野』(1946-1947 年、敗戦直後の帰郷と再生を描いた長編)、『風知草』(1946-1947 年、夫の出獄を中心に据えた連作)、『二つの庭』(1947-1948 年)、『道標』(1947-1950 年、伸子三部作の完結篇でモスクワ滞在を描く)を次々と書き上げる。生涯の代表作群はほぼ戦後 5 年間に集中している。戦中に押し込められた創作衝動が、戦後の自由とともに噴出した。

急逝 — 1951 年 1 月

昭和 26 年(1951 年)1 月 21 日、急性敗血症により東京都内で死去。享年 51。前年から執筆していた『道標』第四部の構想を残したまま、戦後文壇の中心で活動の最中の急死だった。葬儀には新日本文学会の同志・夫・宮本顕治をはじめ多数の作家が参列、戦後民主主義文学の象徴的存在の早すぎる死として全国の文芸誌に追悼が組まれた。

夫・宮本顕治はその後、日本共産党書記長・委員長として戦後左翼政治の中心人物となり、百合子の作品は宮本顕治編で全集が編まれ、戦後長く読み継がれた。

青山霊園に眠る

宮本百合子の墓は、青山霊園 1種ロ8号33側。父・建築家中條精一郎も同じく青山霊園に眠り、明治日本の都市景観を作った父と、近代日本女性文学を作った娘が、同じ霊園内で眠っている。

青山霊園は近代日本文学の作家を多く擁する。志賀直哉岡本綺堂星新一江藤淳 — 系統も世代も異なる作家たちが、それぞれの代表作とともにここに眠る。プロレタリア文学の系譜を一身に背負った女性作家・宮本百合子もまた、そこに連なる近代日本文学の一系列を、明確な輪郭で代表している。

墓参り写真

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