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治安維持法公布


加藤高明内閣が「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スル」結社の組織と参加を禁じる治安維持法を公布。同年五月の普通選挙法と表裏一体で制定され、共産主義・無政府主義運動を取り締まる根拠法として、戦前期の思想弾圧の中核法となった。

Go-shichi no kiri crest 2
Go-shichi no kiri crest 2 Sakurambo / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
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カテゴリ
社会

普選法と表裏一体で公布された思想弾圧法

大正十四年(一九二五)四月二十二日、加藤高明内閣は「治安維持法」を公布した(法律第四十六号、五月十二日施行)。「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と定め、共産主義・無政府主義・社会主義の組織活動を直接の禁止対象とした。同年五月五日に公布された普通選挙法と組で制定された経緯から、「選挙権拡大の代償としての思想弾圧」と評される。当初は共産党対策の限定的な治安立法として説明されたが、後の改正で適用範囲が際限なく拡張され、戦前期日本の言論思想統制の中核装置となる。

背景 — ロシア革命の衝撃と日ソ国交回復

法制定の直接的な契機は日ソ国交回復であった。一九一七年のロシア革命で誕生したソビエト連邦に対し、日本はシベリア出兵で対抗していたが、一九二二年の撤兵後は国交正常化への動きが進み、一九二五年一月二十日の日ソ基本条約で国交が成立した。これに伴い日本国内へのソ連の影響力(コミンテルン)が直接波及することを政府は強く警戒し、共産主義運動への予防的な刑罰法を準備した。同時に一九一八年の米騒動・一九二〇年代の労働運動の急速な高まりが、財界・軍部の社会主義への警戒感を急上昇させていた。

経過 — 三・一五事件・四・一六事件と適用範囲の拡張

公布から三年後の昭和三年(一九二八)三月十五日、田中義一政友会内閣下で全国規模の共産党員一斉検挙(三・一五事件)が実施され、約一六〇〇名が逮捕された。同年六月、緊急勅令で治安維持法は改正され、最高刑が死刑に引き上げられた。翌年四月十六日にも同様の大量検挙(四・一六事件)が行われ、共産党の組織は事実上壊滅した。さらに昭和十六年(一九四一)の改正では予防拘禁制度が導入され、適用範囲は宗教団体(大本教・ホーリネス教会など)・自由主義者・リベラル知識人にも拡大。法の対象は無制限に膨張した。

影響 — 戦前思想統制と戦後の廃止

治安維持法は二十年間にわたり延べ数十万人の検挙者・数千人の獄死者を生み、戦前日本の言論・思想・出版・学問の自由を全面的に圧殺した。哲学者三木清・経済学者河上肇・宗教指導者出口王仁三郎など著名な知識人が逮捕投獄され、転向(思想放棄声明)を迫られた。本霊園に眠る加藤高明はこの法の制定責任者として戦後永く批判の対象となった。同時に普通選挙法を実現したリベラル政党(憲政会)の領袖でもあり、その人物像は単純な保守反動とは異なる複雑な相貌を持つ。法は戦後の昭和二十年(一九四五)十月十五日、GHQ指令により廃止された。

参考資料

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