埴谷 雄高
はにや ゆたか
Haniya Yutaka
戦後文学の巨匠。長編『死霊』で形而上学的小説の到達点を示し、戦後思想に深い影響を残した。本名は般若豊(はんにゃ ゆたか)、植民地下台湾の生まれ。
戦後文学を代表する巨大な思弁の人
埴谷雄高は、昭和戦後文学を代表する小説家・評論家である。生涯のライフワークとなった長編『死霊(しれい)』は、政治運動と形而上学の交差点を 50 年以上にわたって書き続けた、戦後日本の精神史を貫く稀有な作品となった。
本名は般若豊(はんにゃ ゆたか)。植民地下台湾の新竹に日本人公務員の子として生まれ、内地に帰国後、大正・昭和初期の知的・政治的混乱の中で育った。20 代で共産党に入党・検挙され、獄中でカント・ドストエフスキーを読破した経験が、後年の『死霊』のスケールを準備した。
戦後は『近代文学』創刊同人として、武田泰淳・大岡昇平・平野謙・本多秋五らと並んで戦後文学の核を形成。安部公房・北杜夫ら若い才能を発見・支援したことでも知られる。
台湾新竹生まれ — 植民地から内地へ
明治 42 年(1909 年)12 月 19 日、日本統治下の台湾・新竹で生まれる。父は日本人公務員、母も同様。台湾は日本領となって 14 年が経過しており、埴谷は植民地に生まれ育った内地人世代である。
幼少期に内地に戻り、東京で旧制中学・日本大学予科に通った。当時の日本の若い知識人と同様、マルクス主義に強い関心を抱き、青年期の思想形成は政治運動と分かちがたく結びついていた。
1932 年、治安維持法による検挙、豊多摩刑務所
昭和 6 年(1931 年)、日本共産党に入党。翌昭和 7 年(1932 年)3 月、東京・小石川原町で検挙され、治安維持法違反で起訴された。
未決囚として豊多摩刑務所に収監。獄中での 1 年半、埴谷はカントの『純粋理性批判』とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み続けた。
「政治運動の挫折」と「カント・ドストエフスキーの読書」 — この二つが交差した獄中体験が、戦後に書き続けることになる『死霊』の発想の原点となった。「存在とは何か」「自意識とは何か」を、政治運動の経験から問い直す、戦後の埴谷文学の独特の射程は、この豊多摩刑務所の 1 年半に由来する。
昭和 8 年(1933 年)、転向書を提出して釈放された。
戦後 — 『近代文学』と『死霊』
戦後の昭和 20 年(1945 年)以降、埴谷は本格的に文筆活動を開始する。
昭和 21 年(1946 年)1 月、『近代文学』が創刊される。発起人は荒正人・本多秋五・平野謙・武田泰淳・佐々木基一・小田切秀雄ら戦後派の文学者たち。埴谷はそこに同人として加わった。『近代文学』は戦後の論壇・文壇に決定的な影響を残した雑誌である。
同年、長編『死霊(しれい)』の第一章を発表開始。以後 50 年以上にわたって連載を続け、最終的に第九章まで書かれて未完のまま絶筆となった。
『死霊』は、首猛夫・三輪与志・三輪高志といった登場人物たちの内面・対話を通じて、「存在」「自意識」「虚体」といった形而上学的概念を小説の形で展開する、戦後日本文学の中で最も長大かつ難解な作品となった。
代表作:
- 『死霊』(第一章 1946 年 - 第九章 1995 年、未完)
- 『不合理ゆえに吾信ず』(1950)
- 『虚空』(1960)
- 『闇のなかの黒い馬』(1970)
後輩作家の発見 — 安部公房・北杜夫
埴谷は自身の創作と並行して、新しい才能を発見・支援することにも力を注いだ。
昭和 23 年(1948 年)、無名の安部公房を石川淳とともに発見し、その小説を世に出した。安部公房はその後『砂の女』『他人の顔』で世界的作家へと成長したが、その出発点には埴谷の支援があった。
北杜夫(斎藤茂吉の次男)の作品にも生涯にわたり支援を続けた。
受賞、晩年、絶筆
- 昭和 45 年(1970 年): 谷崎潤一郎賞(『闇のなかの黒い馬』)
- 昭和 51 年(1976 年): 日本文学大賞(『死霊』全五章)
- 平成 2 年(1990 年): 藤村記念歴程賞
平成 9 年(1997 年)2 月 19 日、東京で逝去。享年 87。『死霊』第九章執筆途中での絶筆だった。
青山霊園に眠る
埴谷雄高の墓は、青山霊園 1種イ4号6番甲。同霊園には文学者として志賀直哉(白樺派)・尾崎紅葉・国木田独歩・斎藤茂吉・宮本百合子・江藤淳ら多くの作家が眠っており、近代から戦後までの日本文学の流れが青山霊園の墓所に並んでいる。
戦後文学の最も思弁的な書き手の墓が、明治以来の日本文学の系譜と同じ霊園にあること — その配置自体が、近代日本文学の連続性と断絶を静かに物語っている。


