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学制発布


明治政府が日本初の近代的教育制度「学制」を公布。全国を八大学区に分け、各大学区に三十二中学区、各中学区に二百十小学区を置き、約五万三千校の小学校設置を目指した。国民皆学の理念を掲げ、近代日本の教育の出発点となった。

Takato Oki 2
Takato Oki 2 Unknown authorUnknown author / Wikimedia Commons / Public domain
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社会

国民皆学を掲げた近代教育制度の出発

明治五年八月二日(陽暦 1872 年 9 月 5 日)、明治政府は太政官布告第二百十四号として「学制」を公布した。学制は前文に当たる「学事奨励に関する被仰出書」とともに発せられ、「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂ぐる所以のものは他なし身を脩め智を開き才芸を長ずるに由るなり」と国民皆学の理念を明示した。封建時代の身分別・地域別の不均一な教育(藩校・寺子屋・私塾)を解体し、全国民が均一に学校教育を受ける近代システムへの転換を目指した日本史上最初の壮大な教育プランであった。

背景 — 富国強兵と人材育成の必要性

明治新政府は西欧列強に伍する近代国家建設のため、富国強兵・殖産興業の方針を掲げていた。だが封建時代の日本には近代産業を担う技術者も、立憲政治を担う官僚も、近代軍を指揮する将校も決定的に不足していた。明治四年に文部省が設置され、初代文部卿には大木喬任が就任。文部省は欧米諸国の教育制度を調査し、フランスの中央集権的学区制を主たる範に取りながら、日本独自の制度設計に着手した。明六社の啓蒙思想家(西周・福沢諭吉・森有礼・中村正直ら)の論陣も学制制定を後押しした。

経過 — 八大学区制と就学率の急上昇

学制は全国を東京・愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城・東京府以北の八大学区に分け、各大学区に三十二中学区、各中学区に二百十小学区を置く整然たるピラミッド構造を構想。最終的に全国で約五万三千七百六十校の小学校設置が計画された。当初の就学率は男女平均で三十%前後と低調だったが、明治十年代に五十%台へ、明治二十年代には九十%台へと急速に上昇。明治末期には日本は世界最高水準の識字率を達成した。学制は明治十二年に「教育令」、十九年に「学校令」へと改正されていくが、近代日本の教育の骨格はこの一日に発したと言ってよい。

影響 — 識字率世界最高水準への道

学制発布は単なる教育改革ではなく、国民を「臣民」として一律に再編成する近代国家建設の中核装置であった。全国共通の教科書、共通の言語(標準語)、共通の歴史認識が公教育を通じて流通し、藩や身分を超えた「日本人」という意識が初めて形成されていく。本霊園に眠る大木喬任は初代文部卿として学制発布の責任者であり、近代日本の教育制度の生みの親と言える。教育という近代国家の最重要インフラを驚くべき短期間で構築した明治初期の蛮勇は、後の急成長を可能にした。

参考資料

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