西 周
にし あまね
Nishi Amane
「哲学」「科学」「芸術」「主観」「客観」など多数の学術用語を作り出した明治の啓蒙思想家。明六社の中心メンバー。
「哲学」という言葉を作った男
西 周(にし・あまね)は、近代日本における「学術用語の創造者」である。「哲学」「科学」「芸術」「主観」「客観」「概念」「観念」「意識」「理性」「現象」「実在」「演繹」「帰納」「定義」「命題」「肯定」「否定」「心理学」「論理学」「倫理学」「美学」「文化」「文学」 — 現代の日本人が当たり前に使うこれらの抽象語は、ほとんどすべて西周の手で作られたか、彼が定着させたものである。
明治初期、日本人は西洋の学術思想を吸収する必要に迫られながら、それを表現する語彙を持っていなかった。philosophy、science、art、subject、object — どう日本語にすればいいのか。西は中国古典の漢字熟語を選び、組み合わせ、または新造して、欧米概念に対応する日本語を一つ一つ作っていった。「philosophy」を「希哲学」と訳し、後に「哲学」と短縮したのは西である。
今日の日本人が「私の意識では」「客観的な事実」「科学的根拠」「文化の違い」と話すとき、その言葉のすべてが西周を経由している。一人の人間が一つの民族の思考語彙をここまで決定した例は、世界史を見渡しても稀である。
明治 6 年(1873 年)、福澤諭吉・森有礼・西村茂樹・加藤弘之・中村正直・津田真道らと明六社を結成し、機関誌『明六雑誌』を通じて啓蒙思想を広めた。代表的著作『百一新論』(1874 年)『百学連環』(講義録、1870 年代)は、日本における近代哲学・近代学問体系の出発点となった。
幕末は徳川慶喜のブレーンとして公議政体論の理論的支柱となり、明治新政府でも兵部省・陸軍省に出仕して軍人勅諭(1882 年)の起草に関与した。山県有朋が陸軍に与えた精神教育の基本文書を書いた人物でもある。
明治 30 年(1897 年)1 月 31 日、東京で死去。享年 67。日本語そのものを変えた男の、静かな死だった。
津和野の御典医の息子、脱藩
文政 12 年(1829 年)、石見国津和野藩(現・島根県津和野町)の御典医・西時義の長男として生まれる。津和野は山陰の小藩(石高 4 万 3 千石)ながら、藩主・亀井家が文教を重視した家風で、藩校・養老館では朱子学・蘭学が並行して教えられていた。同じ津和野からは森鷗外も出ている。
藩校で朱子学・蘭学を修めた後、嘉永 6 年(1853 年)、24 歳の西は脱藩して江戸に出る。藩士の身分を捨てた重い決断で、当時の感覚では一族と縁を切るに等しい行動だった。江戸で蘭学者・手塚律蔵に師事し、安政 3 年(1856 年)には幕府の蕃書調所教授手伝となり、洋学の研究と教育に従事した。
ライデン大学留学 — フィッセリングのもとで
文久 2 年(1862 年)、津田真道らとともに幕府からオランダ留学を命じられる。ライデン大学でシモン・フィッセリングのもとで法学・経済学・哲学・統計学・国際法を体系的に学んだ。日本人が西洋の学問を「学科目として体系的に」習得した最初期の留学で、西の知的形成の核心はこの 3 年間に作られている。
慶応元年(1865 年)に帰国し、慶応 3 年(1867 年)、幕府開成所教授に就任。徳川慶喜のブレーンとして公議政体論(諸侯会議による政治運営)の理論的支柱を務めた。大政奉還・王政復古の思想的下準備に、西の名がある。
「哲学」という訳語の発明
明治新政府でも西は重用され、兵部省・陸軍省に出仕。私塾「育英舎」で『百一新論』『致知啓蒙』『百学連環』を講じ、後進を育成した。
ここで西の最大の業績が始まる。学問の体系を一つひとつ日本語の語彙として確立する作業である。「philosophy(愛智)」を訳して「希哲学」、後に「哲学」と短縮。「science(知識を求めること)」を「科学」(漢学の「科挙の学」をもじった造語の説あり)。「art(技芸 + 美的創造)」を、「技術」と「芸術」の二語に分割。「subject(主体)」と「object(客体)」を、それぞれ「主観」「客観」と訳した。
抽象概念だけではない。「定義」「命題」「肯定」「否定」「演繹」「帰納」「概念」「観念」「意識」「理性」「悟性」「現象」「実在」 — 西洋哲学・論理学の基本語彙のほぼ全てが、西の手で日本語化された。後の福澤諭吉・井上哲次郎ら他の啓蒙思想家もそれぞれ訳語を作ったが、最も体系的かつ最も多く現代まで生き残ったのは西周の訳語である。
明六社、そして軍人勅諭
明治 6 年(1873 年)、明六社を結成。福澤諭吉・森有礼・西村茂樹・加藤弘之・中村正直・津田真道らと、日本の啓蒙運動の中核を形成した。『明六雑誌』に多数の論文を発表し、欧米の哲学・倫理学・心理学・統計学を平易な日本語で初めて紹介した。
明治 15 年(1882 年)、山県有朋の依頼で軍人勅諭(陸海軍人に賜はりたる勅諭)を起草。「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の五カ条を柱とするこの文書は、戦前日本の軍人精神教育の根本文書となった。西は啓蒙思想家であると同時に、明治国家の精神基盤を作った設計者の一人でもあった。
静かな最期
明治 30 年(1897 年)1 月 31 日、東京で死去。享年 67。同じ明六社のメンバーで初代文部大臣・森有礼が憲法発布の日(1889 年 2 月 11 日)に暗殺されたのと対照的に、西は東京の自宅で静かに息を引き取った。
日本語を作り変えた男にふさわしい、目立たない死だった。
血族の著名人
津和野藩の医家・西家の系譜は、海軍と森家(文学)へと広がる。
- 養子・西 紳六郎 — 海軍中将。日清・日露戦争に参加、後に貴族院議員
- 妻・升子 — 森家との関係: 西は森鷗外と「系譜上」親族として扱われる(鷗外は西の従甥にあたる)。ただし鷗外の母方の祖父母および父が養子であったため、血のつながりはない。津和野出身の二大文化人(西周と森鷗外)が同じ町内で育ち、家系上の縁戚関係にあったという文化的事実は、津和野の風土を象徴する
逸話・エピソード
「希哲学」から「哲学」へ — 一字削った決断
西は当初、philosophy を「希哲学(きてつがく)」と訳した。中国宋学の周敦頤『通書』にある「士希賢、賢希聖、聖希天(士は賢を希(ねが)い、賢は聖を希い、聖は天を希う)」の「希」を取り、「智を希う学」の意を込めた典雅な造語だった。
しかし後の講義で西自身が「希」を落とし「哲学」と短縮する。「希」が抽象的すぎて学生に伝わりにくいと判断したからだ。一字削るという地味な決断が、日本語史における最大級の造語の確定に直結した。もし西が「希哲学」のまま固執していたら、現代の日本人は「希哲学者カント」「希哲学科」と呼んでいたかもしれない。一字の取捨選択が学術用語の定着を分ける — その判断を一人で行なった人物が西周だった。
軍人勅諭起草 — 啓蒙思想家が書いた「武の道」
明治 15 年(1882 年)、山県有朋の依頼で西は軍人勅諭を起草した。明六社で啓蒙思想を説いた人物が、陸海軍人に賜わる勅諭(忠節・礼儀・武勇・信義・質素)を書いたという組み合わせは、当時から不思議がられた。
西自身は「軍は国家の制度の一部、その精神基盤を作るのも学者の責務」と割り切っていたとされる。後年、軍人勅諭は戦前日本の軍人教育の根本文書として絶対視され、敗戦まで陸海軍将兵が暗誦し続けた。「哲学」の訳語を作った同じ人物が、「忠節」「武勇」を国家規範として制度化した文書を書いた — 明治国家の知の幅広さと、後の歴史が引き受けた重さを、西の業績は両面で背負っている。
青山霊園に眠る
西周の墓は、青山霊園 1種ロ8号19側。同じ青山霊園には、明六社の同志・森有礼の墓もある(別区画)。郷里・島根県津和野町には西周旧居・西周生家が遺り、同じ津和野が生んだ森鷗外の旧居・記念館とともに、「津和野が生んだ近代日本の知の巨人」を顕彰する観光ルートとなっている。





