大木 喬任 (1832-1899)の肖像
大木 喬任の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

大木 喬任

おおき たかとう

Ooki Takato

佐賀の七賢人の一人。司法卿・文部卿として近代法典の整備と教育制度の骨格を築いた肥前佐賀の政治家、伯爵。

生没年
出身地
肥前国佐賀城下(現・佐賀県佐賀市)
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
司法卿・文部卿
爵位
伯爵
出身校
弘道館 / 義祭同盟
所属
義祭同盟
区画
1種イ5号7側
タグ
佐賀の七賢人 / 司法卿 / 文部卿 / 元老院議長 / 伯爵

「佐賀の七賢人」 — 法典と学制を作った政治家

大木喬任は、佐賀藩出身の政治家であり、司法卿・文部卿・元老院議長・枢密院議長を歴任した明治初期の重鎮である。大隈重信・江藤新平・副島種臣佐野常民・島義勇・鍋島直正と並んで 「佐賀の七賢人」の一人に数えられる。

明治新政府で 司法卿(現在の法務大臣)を 5 期にわたって務め、刑法・民法など近代日本の法典編纂の基礎を築いた。文部卿(現在の文部大臣)としては、明治 5 年(1872 年)の 「学制」(日本初の包括的教育制度)制定を主導。「教育を国家の制度として組み立てる」という思想を、副島種臣の「衛生」、長与専斎の「医療制度」と並んで明治日本に根づかせた。

副島種臣が外交・書道に転じ、江藤新平が佐賀の乱で散った中、大木は 「法と教育の佐賀」として明治後期まで政府中枢で生き残った。明治 17 年(1884 年)、伯爵に叙される。

義祭同盟、藩校弘道館の俊英

天保 3 年(1832 年)、佐賀城下に佐賀藩士・大木知喬の長男として生まれる。藩校・弘道館で学び、副島種臣の兄・枝吉神陽が主宰した尊王思想の私塾的集団 「義祭同盟」に加わる。江藤新平・副島種臣・島義勇らとは、若年からの同志であった。

幕末には京都・江戸を往復して情報収集にあたり、慶応 3 年(1867 年)の 大政奉還前後の政局に佐賀藩の代表として関与した。

明治政府で司法卿・文部卿

明治新政府では、若年寄→民部卿→東京府知事(明治 2 年/1869 年、東京の首都化を統括)→文部卿→司法卿と、内政の中枢を渡り歩いた。

文部卿(明治 4-6 年)

明治 4 年(1871 年)文部卿就任。翌明治 5 年(1872 年)8 月、「学制」を発布。日本全国を 8 大学区・32 中学区・210 小学区(後年改正)に区分し、すべての国民を学校に通わせる構想を打ち出した。

「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」という学制序文の理念は、明治日本の近代化の根底をなす思想となった。資金・教員・施設の不足で当初の理想通りには進まなかったが、後の 教育令(1879 年)・学校令(1886 年)の出発点となった。

司法卿(明治 6-13 年、断続 5 期)

明治 6 年(1873 年)、明治六年政変後の動揺期に司法卿就任。以後、5 期にわたって司法卿を務め、明治日本の 司法制度・法典編纂の骨格を築いた。

特に重要なのは、フランス民法・刑法を範に 近代法典編纂事業を推進したことである。ボアソナード(フランス人法学者)を司法省顧問に招き、刑法(1882 年施行)・治罪法・民法(1890 年公布、後の民法典論争を経て 1896 年現行民法へ)の起草に着手した。

元老院議長・枢密院議長として晩年

明治 13 年(1880 年)、元老院議長。明治 17 年(1884 年)、伯爵に叙され華族に列する。明治 19 年(1886 年)、第 1 次伊藤博文内閣の 文部大臣に再任(学制の制定から 14 年ぶり)、教育令の整備を進めた。

明治 21 年(1888 年)、枢密院議長代理として大日本帝国憲法の制定に関わる。明治 23 年(1890 年)・明治 24 年(1891 年)、第 1 次山県内閣・第 1 次松方内閣の 司法大臣として再登板。日本の近代法典体系がほぼ整った時期に司法のトップを占めていた。

明治 32 年 6 月 26 日、東京で逝去

明治 32 年(1899 年)6 月 26 日、東京・木挽町の自邸で病死。享年 68。葬儀は青山霊園に営まれた。

親族の著名人

逸話・エピソード

「邑に不学の戸なく」 — 学制序文に込めた理想

明治 5 年(1872 年)の学制発布にあたり、文部卿・大木が起草に深く関わった「被仰出書(おおせいだされしょ)」は、次の有名な一節を含む。「自今以後、一般の人民、華士族農工商及婦女子、必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」。

身分を問わず、すべての村に学校を持たぬ家がなく、すべての家に学ばぬ人がいない状態を目指す — この理念は、当時の日本では非現実的なほど野心的だった。資金も教員も施設も足りない中、「とにかくこの理想を文字として国家に刻んでおく」ことを大木は選んだ。後年の教育令・学校令は学制の不備を修正していったが、序文の理念だけは生き残り、戦後の教育基本法にまで思想的に受け継がれている。一人の文部卿が書き残した一文が、150 年後の日本の教育観の土台に残った。

義祭同盟の同志 — 江藤新平を失った夜

大木と江藤新平は、佐賀の義祭同盟以来の盟友であった。江藤が司法卿として近代法典の起草に着手し、大木がそれを引き継ぐという連携で、明治初期の司法行政は動いていた。

ところが明治 7 年(1874 年)、佐賀の乱で江藤が処刑される。同郷の盟友を、明治政府の側として失った大木の衝撃は深かった。「江藤を救えなかった」 — そう周囲に漏らしたとの伝承がある。江藤の死後、大木は司法卿を引き継ぎ、5 期にわたって務め上げる。盟友が志半ばで斃れた仕事を、自分が責任を持って完成させる — その意志が、刑法・治罪法・民法と続く近代法典編纂事業を粘り強く支えた背景にあった。

青山霊園に眠る

大木喬任の墓は、青山霊園 1種イ5号7側。同じ「1種イ5号」の区画には、博愛社を創設した 佐野常民(26 側)、後藤新平(1 側)、新潮社創業者 佐藤義亮(22 側)、森永製菓創業者 森永太一郎(2 側)など、近代日本の制度設計者・実業家が並ぶ。

「佐賀の七賢人」のうち、佐野常民は 1種イ5号、大木喬任は 1種イ5号、副島種臣は 1種イ21号、と、佐賀出身者が青山霊園「イ」エリアにまとまって眠る配置となった。法と教育という、近代国家の屋台骨を作った男の墓所である。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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