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乙未事変(閔妃暗殺事件)


駐韓公使・三浦梧楼が日本軍守備隊・大陸浪人を率いて景福宮に侵入、朝鮮王妃・閔妃を殺害。日韓関係に深い汚点を残した事件。

Le Journal Illustré L`ASSASSINAT DE LA REINE CORÉE (cropped)
Le Journal Illustré L`ASSASSINAT DE LA REINE CORÉE (cropped) Le Journal illustré / Wikimedia Commons / Public domain
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事件

日韓近代史最大の汚点

乙未事変(いつびじへん)は、明治 28 年(1895 年)10 月 8 日未明、駐韓特命全権公使・三浦梧楼の指揮の下で、日本軍守備隊・公使館員・大陸浪人(壮士)らが景福宮に侵入し、朝鮮王朝の王妃・閔妃(明成皇后)を殺害して遺体を焼却した事件である。「乙未」は事変が起きた干支年(1895 年)に由来する朝鮮側の呼称で、日本側では「閔妃暗殺事件」「漢城事変」とも呼ばれる。

事件の衝撃は朝鮮内外で計り知れず、国際社会からの非難が日本政府を直撃した。三浦梧楼以下 48 名は即時罷免・召還され、広島で予審裁判が開かれた。しかし明治 29 年(1896 年)1 月、全員が「証拠不十分」を理由に免訴となる。法廷上は無罪の決着がついた一方、歴史的責任は今日に至るまで日韓関係に重く影を落とし続けている。

背景 — 三国干渉と朝鮮宮廷のロシア接近

下関条約(明治 28 年 4 月 17 日)で清国の宗主権を排除した日本にとって、朝鮮半島の親日化は日清戦争の最大の戦果のはずだった。しかし条約調印から 6 日後の 4 月 23 日、ロシア・ドイツ・フランス三国による三国干渉が日本を遼東半島から押し戻すと、朝鮮宮廷はこの「日本が屈服した」という事実を即座に読み取った。

王妃・閔妃を中心とする朝鮮宮廷は、急速にロシアへの接近を進める。明治 28 年(1895 年)夏、親日派の朴泳孝が内閣から追放され、親露派の李範晋・李完用らが要職に就いた。日本が日清戦争で築こうとした朝鮮への影響力は、わずか半年で崩壊しようとしていた。

8 月、新任の駐韓公使として三浦梧楼が着任。陸軍中将としての軍歴と、文相経験者としての政治力を持つ強硬派の起用は、日本政府の対朝政策の転換を予告するものだった。三浦は着任直後から、朝鮮宮廷から実権を奪い親日政権を再構築する計画を、公使館内および在留日本人壮士たちと協議し始めた。実行手段は、王宮への武力侵入と閔妃の排除であった。

なお、事件の指揮系統と日本政府本省(西園寺公望外相代理・伊藤博文首相)の関与の程度については史料上の議論が続いているが、現代の歴史学では三浦が独断で実行したのではなく、本国の暗黙の了解の下に行われたとする見方が有力である。

10 月 8 日未明 — 景福宮侵入

明治 28 年(1895 年)10 月 8 日未明、午前 3 時頃、漢城(現・ソウル)。三浦梧楼の指揮の下、楠瀬幸彦書記官、岡本柳之助(元朝鮮政府軍部顧問)、安達謙蔵(熊本国権党、後の内相)らが組織した実行部隊が動き出した。

部隊の中核は、日本軍漢城守備隊(第 18 連隊第 1 大隊)と、漢城在留の大陸浪人(壮士)約 30 名。表向きは「興宣大院君(高宗の父、閔妃と政敵)を担いだクーデター」を装うため、まず大院君を別邸から景福宮へ伴行した。

午前 5 時頃、景福宮の光化門・春生門から実行部隊が突入。王宮を護衛していた朝鮮軍訓練隊の一部はあらかじめ買収または同調しており、抵抗はほとんどなかった。乾清宮(王と王妃の居所)に到達した日本人壮士たちは、王妃の居室・玉壷楼で閔妃を発見、斬殺した。同時に近侍の宮女数名も殺害された。遺体は光化門外の鹿園(松林)に運ばれ、灯油をかけて焼却された。享年 44。

事件の現場には米国人軍事顧問ダイ(William McEntyre Dye)・ロシア人技師サバチン(Afanasy Seredin-Sabatin)らがおり、彼らの目撃証言が後に各国公使館を通じて世界に伝わった。当初日本政府は「朝鮮内部の政変」と発表したが、外国人目撃者の証言により隠蔽は数日で崩壊する。

10 月 17 日、日本政府は三浦梧楼・杉村濬書記官以下 48 名を罷免・召還。広島地方裁判所予審で起訴され、明治 29 年(1896 年)1 月 20 日、「証拠不十分」を理由に全員免訴となった。

歴史的影響

  1. 朝鮮宮廷のロシア亡命(露館播遷) — 事件から 4 か月後の明治 29 年(1896 年)2 月 11 日、身の危険を感じた高宗は王世子とともに密かにロシア公使館へ移御。1 年余にわたり王が外国公使館で執務する異常事態となり、朝鮮宮廷は完全にロシア寄りに傾いた。日露の朝鮮半島をめぐる対立構造はここで決定的になる。

  2. 大韓帝国成立への屈折した流れ — 高宗は明治 30 年(1897 年)2 月に慶運宮(現・徳寿宮)へ還御し、同年 10 月に大韓帝国を称して皇帝即位を宣言。閔妃には「明成皇后」の諡号が追贈された。皇帝制への移行は、王妃殺害という屈辱への反作用として行われた側面が強い。

  3. 国際社会からの日本評価の悪化 — 「文明国」を自負していた日本が、軍人と壮士を組織して友好国の王妃を惨殺したという事実は、欧米各国の外交官・新聞に強い衝撃を与えた。日本の対外イメージは下関条約後の頂点から急落し、三国干渉以降の国際的孤立に拍車をかけた。

  4. 韓国併合への伏線 — 乙未事変は、日韓関係の根本的不信の起点として、後の保護条約(1905 年)・韓国併合(1910 年)に至るまでの一連の過程に影を落とし続けた。現代の日韓歴史認識問題の核心の一つとして、今もなおこの事件は両国の歴史教育で重く扱われている。

関連する偉人とその役割

三浦 梧楼(駐韓特命全権公使・陸軍中将)

長州奇兵隊出身、明治 11 年(1878 年)に陸軍中将。学習院長・第 3 次伊藤博文内閣文相を経て、明治 28 年(1895 年)8 月に駐韓公使として漢城に着任。着任からわずか 2 か月後の 10 月 8 日、乙未事変の中心的指揮者として景福宮侵入と閔妃殺害を主導した。

事件発覚後、即時罷免・召還を受けて広島予審で起訴されたが、明治 29 年(1896 年)1 月に証拠不十分で免訴。後年は枢密顧問官・貴族院議員として政界の調停役を務め、大正政変前後の元老・大臣・政党領袖の間を周旋する黒幕的役割を果たした。「観樹翁」と呼ばれ、晩年は宮中政治の節目で重要な役割を担う一方、駐韓公使時代の責任は最後まで歴史的に問われ続けた。

大正 15 年(1926 年)1 月 28 日、東京で死去。享年 79。自伝『観樹将軍回顧録』(大正 14 年)では乙未事変についても回想しているが、その内容は今日の歴史学から見て十分な責任認識を示すものではない。三浦の墓所は青山霊園にある(具体的な区画番号は確定していない)。長州奇兵隊として明治を切り開いた軍人が、駐韓公使として歴史に汚点を残し、晩年は政界の黒幕として動いた — その複雑な経歴は、近代日本がアジア外交でどこで道を誤ったかを一人で背負う重い記憶として、青山霊園の地に眠っている。

関連する作品

  • 角田房子『閔妃暗殺 — 朝鮮王朝末期の国母』(新潮社、1988 年) — 当事者証言と一次史料を組み合わせた現代の代表的ノンフィクション
  • 朴鍾根『日清戦争と朝鮮 — 外圧と内政の交錯』(青木書店) — 朝鮮側からの視点による事件分析
  • 韓国映画『閔妃暗殺』(韓国 KBS 制作の歴史ドキュメンタリードラマ、1996 年放映、1995 年事件 100 周年)
  • 韓国ドラマ『明成皇后』(KBS、2001-2002 年) — 閔妃の生涯と乙未事変を描いた大河ドラマ
  • 韓国・ソウルの景福宮には、事件の現場である乾清宮が復元保存され、訪問者が当時の空間を目視できる

参考資料

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