韓国併合条約調印
韓国統監・寺内正毅と韓国首相・李完用が併合条約に調印。同月 29 日の公布で大韓帝国は日本に併合、以後 35 年間の植民地統治期に入る。
大韓帝国の終わり、植民地統治 35 年の始まり
韓国併合条約調印は、明治 43 年(1910 年)8 月 22 日、漢城(現・ソウル)の韓国統監府で、第三代統監・寺内正毅と韓国首相・李完用の間で締結された条約である。同月 29 日に両国で公布され、大韓帝国はその国号を「朝鮮」と改めて日本の領土に編入された。以降、昭和 20 年(1945 年)8 月 15 日まで、35 年に及ぶ朝鮮総督府による植民地統治期に入ることになる。
日本側から見れば、日露戦争(1904-1905 年)で朝鮮半島の権益を確保し、ポーツマス条約・第二次日韓協約・第三次日韓協約と段階を踏んで進めてきた韓国保護国化が、ここで最終形態に到達した。ポーツマス条約以来の小村寿太郎外相の対外政策が、外相の最後の大仕事として完結した瞬間でもある。一方、朝鮮側から見れば、半島が外国の領土として呑み込まれ、国家としての主体性を失う日であった。日本と朝鮮半島の関係を語る上で、この日の意味は今も決して軽くならない。
背景 — 日清・日露戦争を経た朝鮮半島
朝鮮半島の帰属は、明治日本にとって 19 世紀末から最重要の安全保障課題だった。日清戦争(1894-1895 年)で清の宗主権を排除、日露戦争(1904-1905 年)でロシアの南下を撃退した日本は、朝鮮半島から主要なライバル勢力をすべて取り除いた。
ポーツマス条約(1905 年 9 月、小村寿太郎全権)で日本は「朝鮮における優越権」をロシアに認めさせる。同年 11 月の第二次日韓協約で韓国の外交権を奪い、漢城に統監府を設置。初代統監に伊藤博文が就任した。明治 40 年(1907 年)の第三次日韓協約で内政権・軍隊解散を強要し、韓国はすでに事実上の保護国となっていた。
そして明治 42 年(1909 年)10 月 26 日、ハルビン駅頭で前統監・伊藤博文が朝鮮独立運動家・安重根に暗殺される。皮肉にも、この事件は併合への踏み切りを加速させた。伊藤は併合慎重派とされていたが、その死後、桂太郎内閣・小村寿太郎外相・寺内正毅統監(陸相兼任)のラインで、併合への決意が固まっていく。
8 月 22 日 — 統監府での調印
明治 43 年(1910 年)5 月、寺内正毅が陸相兼任のまま第三代統監に就任。寺内は併合実施のため漢城に乗り込み、韓国側の合意取り付けを進めた。一進会など親日派の上奏運動も並行して動いていたが、首相・李完用ら韓国政府要人との交渉が併合への正式な道だった。
8 月 22 日、漢城(現・ソウル)の南山統監府で、寺内統監と李完用首相が韓国併合条約に調印した。全 8 条からなる条約は次の要点を含む。
| 条項 | 内容 | | 第 1 条 | 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与する | | 第 2 条 | 日本国皇帝陛下は前条の譲与を受諾する | | 第 3 条 | 日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下・太皇帝陛下・皇太子殿下に各称号を授与し相当の歳費を供する | | 第 8 条 | 本条約は両国皇帝陛下の裁可を経て公布の日より施行する |
調印事実は約 1 週間秘匿され、8 月 29 日に両国で公布された。同日、韓国の国号は「朝鮮」と改称、統監府は朝鮮総督府となり、寺内正毅がそのまま初代朝鮮総督に横滑りした。大韓帝国の終焉である。
同時の措置 — 関税自主権の留保
併合に伴って国際的に注目されたのが、韓国がそれまで諸外国と結んでいた条約の取り扱いだった。日本は併合時、朝鮮の関税自主権を留保し、韓国時代に外国に与えていた関税協定を 10 年間継承するという措置を取った。これは欧米列強の経済的利益を保全して併合の国際的承認を得るための配慮だった。同年 8 月 26 日、各国に併合宣言が通告され、英・米・仏・露など主要国は黙認の姿勢を取った。日英同盟・日露協約・日仏協約という小村外交の伏線が、ここで効いている。
歴史的影響
-
朝鮮半島 35 年の植民地統治 大正・昭和を通じて、朝鮮総督府は土地調査事業・産米増殖計画・創氏改名(1939 年)・皇民化政策など、現在に至るまで日韓間の歴史認識問題の根源となる諸政策を推進した。
-
3 月 1 日独立運動への種 併合 9 年後の大正 8 年(1919 年)3 月 1 日、京城(ソウル)で独立宣言が読み上げられ全国的な独立運動が発生する。同年のパリ講和会議への抗議も含めて、20 世紀の朝鮮民族運動の原型が形成された。
-
小村外交の到達点 日英同盟・ポーツマス条約から続いた小村寿太郎の外交プログラムは、韓国併合と翌 1911 年の関税自主権回復で完結する。小村はその直後、結核で没した。
-
アジアと日本帝国の構造的問題 非西欧国家による初の本格的植民地獲得は、後年の台湾・南洋諸島・満洲国・大東亜共栄圏という構想の原型を生み、20 世紀前半の東アジア国際関係を規定し続けた。
関連する偉人とその役割
小村 寿太郎(外務大臣)
第二次桂太郎内閣の外相として、併合に至る外交環境を整えた当事者。日英同盟改訂(1905 年・1911 年)、ポーツマス条約(1905 年)、第二次・第三次日韓協約(1905 年・1907 年)、第二回日露協約(1910 年)など、列強を順次「韓国併合に同意・黙認させる」一連の外交を主導した。
併合そのものは寺内正毅統監が漢城で締結したが、列強に対する事前根回しと、併合後の朝鮮関税自主権 10 年留保など国際的後始末は小村外相の責任分担だった。併合の翌年(1911 年)2 月、関税自主権回復で不平等条約改正を完結させ、同年 11 月に結核で死去。本霊園 1 種ロ 12 号 1・6 側に眠る。
関連する作品
- 司馬遼太郎『坂の上の雲』 — 韓国併合に至る日露戦後の朝鮮半島情勢を、小村外交の文脈で描く
- 角田房子『閔妃暗殺』(新潮社、1988 年) — 併合前史としての日韓関係を、韓国王妃暗殺事件から追った記録文学
- 朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未來社、1965 年) — 戦時期朝鮮人動員の研究、併合 35 年の暗部を実証的に記述