三国干渉
下関条約調印六日後、ロシア・ドイツ・フランス三国が日本に遼東半島の清への返還を勧告。日本はやむなく要求を受諾し、追加賠償金三千万両と引き換えに半島を返還した。「臥薪嘗胆」のスローガンを生み、十年後の日露戦争への直接の伏線となった。
戦勝六日後に届いた三国共同の返還勧告
明治二十八年(一八九五)四月二十三日、下関条約調印からわずか六日後、東京の外務省にロシア・ドイツ・フランス三国の駐日公使がほぼ同時に来訪し、日本政府に対し遼東半島の清国への返還を勧告する共同覚書を提出した。形式は「友好的勧告」だが実質は最後通牒であり、ロシアはウラジオストックの艦隊を臨戦態勢に置き、ドイツ・フランスも艦艇を東洋に集結させていた。日本は日清戦争の戦勝で獲得したばかりの遼東半島(旅順・大連を含む)を、戦争を交えることなく失うことになった。維新後二十七年の若い帝国にとって、列強国際秩序の厳しさを骨身に染みて教えられる初めての経験であった。
背景 — ロシアの南下政策と不凍港獲得欲
干渉の主導者はロシアであった。シベリア鉄道建設を進めるロシアは、極東における不凍港の獲得を国是としており、日本が旅順・大連を含む遼東半島を領有することは、自国の南下政策に致命的な障害となる事態であった。ロシアはドイツ皇帝ヴィルヘルム二世に「黄禍論」を吹き込んで同盟を取り付け、ロシアと外交的に連携していたフランスも引き入れて三国体制を構築。当時の日本に三国海軍と単独で対峙する戦力はなく、英国・米国の支援も得られない孤立状況であった。陸奥宗光外相は伊藤博文首相と協議し、要求受諾以外の選択肢はないと判断した。
経過 — 受諾と追加賠償金三千万両
日本は五月五日、三国の勧告を正式に受諾し、遼東半島を清国へ返還することを通告した。代わりに清国から「還付報奨金」として三千万両(銀)を受け取る形で経済的補償が行われた。下関条約の賠償金二億両と合わせて、清からの賠償総額は二億三千万両となり、当時の日本国家予算の数年分に相当する巨額であった。日本国民は戦勝の歓喜から一転して屈辱に沈み、新聞各紙は「臥薪嘗胆」(将来の復讐に備えて苦境に耐える)というスローガンを掲げて世論を喚起した。明治天皇も詔書で国民の自重を求めた。
影響 — 臥薪嘗胆と日露戦争への十年
三国干渉は日本外交に二つの根本的な転換をもたらした。第一に、英国・米国を引き付けて三国(特にロシア)に対抗する「日英同盟」(一九〇二年)路線の必要性が認識されたこと。第二に、軍事力強化のため戦後経営として陸軍六個師団増設・海軍六六艦隊計画が始動し、対露戦に備える国家総動員体制の準備が始まったこと。本霊園に眠る小村寿太郎はこの時期に外務省政務局長として三国干渉対応に深く関与し、後に駐英・駐米・駐露公使を歴任、外相としてポーツマス条約を締結する道を歩む。林董は当時駐露公使として現地でロシアの軍事準備を観察し、後に駐英公使として日英同盟締結の交渉を担うことになる。三国干渉から日英同盟、そして日露戦争まで、わずか十年の駆け足の物語であった。