日清戦争開戦
清国に対して宣戦布告、日清戦争が始まる。参謀本部次長・川上操六が大本営作戦立案の中心を担う。日本の近代戦争の幕開け。
近代日本にとって最初の対外戦争
日清戦争は、明治 27 年(1894 年)8 月 1 日に清国に対する宣戦布告で開戦し、明治 28 年(1895 年)4 月 17 日の下関条約調印で終結した、近代日本最初の本格的対外戦争である。朝鮮の支配権をめぐる日清両国の対立が、東学党の乱への共同派兵を契機に武力衝突へと発展した。
戦争は陸海ともに日本側の優勢で推移し、平壌の戦い・黄海海戦・旅順攻略・威海衛攻略を経て約 8 か月で清国の戦闘継続意思を挫いた。日本は台湾・澎湖諸島・遼東半島を獲得し、賠償金 2 億両(当時の日本国家予算の約 3 倍)を手にして、東アジアの新興強国として国際社会に登場する。同時に、戦勝直後の三国干渉(露独仏)によって遼東半島を返還させられ、10 年後の日露戦争へ向かう新たな緊張関係も生まれた。
背景 — 天津条約と東学党の乱
朝鮮半島は 19 世紀末、清国を宗主国とする旧来の冊封体制と、明治日本が推進する近代的独立国家化との間で揺れ続けていた。明治 17 年(1884 年)の甲申政変で開化派が壊滅した後、明治 18 年(1885 年)の天津条約により、日清両国は朝鮮からの撤兵と、再派兵時の事前通告を取り決めていた。
明治 27 年(1894 年)2 月、朝鮮南部で東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発。閔氏政権は清国に出兵を要請し、清軍が牙山に上陸する。天津条約の規定に基づき清国から日本へ通告がなされたことで、日本も対抗派兵を決断。6 月 9 日、混成第 9 旅団が仁川に上陸した。乱はすでに鎮静化していたが、両軍はそのまま朝鮮に駐留して睨み合いの状態に入る。
外務大臣・陸奥宗光は強硬な対清姿勢を貫き、参謀本部次長・川上操六が陸軍の作戦計画を統括した。7 月 23 日、日本軍は景福宮を占領して大院君を首班とする親日政権を樹立。7 月 25 日、豊島沖海戦で日本連合艦隊が清国艦隊を撃破、7 月 29 日には成歓の戦いで陸戦の緒戦も日本軍が勝利する。8 月 1 日、両国は正式に宣戦を布告した。
なお開戦の遠因として、同年 3 月の金玉均上海暗殺事件がある。朝鮮政府の刺客が日本亡命中の開化派指導者・金玉均を上海で銃殺し、遺体を朝鮮へ送って凌遅刑に処したこの事件は、日本国内の対清・対朝強硬論を一気に燃え上がらせた。
主要な戦闘経過
- 明治 27 年 7 月 25 日 — 豊島沖海戦(緒戦の海上勝利、宣戦布告前の戦闘行為)
- 明治 27 年 8 月 1 日 — 日清両国の宣戦布告
- 明治 27 年 9 月 15-16 日 — 平壌の戦い。野津道貫第 5 師団が清軍を撃破し朝鮮全土を制圧
- 明治 27 年 9 月 17 日 — 黄海海戦。連合艦隊が清国北洋艦隊を破り、黄海の制海権を確立
- 明治 27 年 10 月 — 鴨緑江を渡り清国領内へ侵攻開始
- 明治 27 年 11 月 21 日 — 旅順攻略。山県有朋第 1 軍と大山巌第 2 軍が遼東半島を制圧
- 明治 28 年 2 月 12 日 — 威海衛攻略。北洋艦隊司令長官・丁汝昌が自決、清国海軍は壊滅
- 明治 28 年 3 月 — 澎湖諸島占領
- 明治 28 年 4 月 17 日 — 下関条約調印
戦死者は日本側戦死 1,132 名・戦病死 11,894 名、清国側は推定 35,000 名超。戦病死が戦死を 10 倍上回ったのは、当時の野戦衛生体制の未熟さを物語る数字である。
歴史的影響
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賠償金と産業基盤の形成 — 賠償金 2 億両(銀)に遼東半島還付金 3,000 万両を加えた約 3 億 6,000 万円が日本に流入。八幡製鉄所(明治 34 年操業開始)の建設、金本位制への移行(明治 30 年)、軍備拡張の財源となり、日本産業革命の決定的な後押しとなった。
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三国干渉と臥薪嘗胆 — 講和直後の 4 月 23 日、ロシア・ドイツ・フランスが日本に遼東半島返還を勧告。日本は受諾し、5 月 5 日に返還を発表した。「臥薪嘗胆」のスローガンの下、対露感情が悪化し、10 年後の日露戦争へ向かう精神的・軍事的準備が始まる。
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台湾領有 — 下関条約で割譲された台湾を日本は 50 年間統治する。樺山資紀初代総督以下、後藤新平民政長官の時代に至るまで、植民地行政の実験場となった。
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アジア秩序の転換 — 数百年にわたる清国中心の冊封体制が崩壊し、東アジアにおける覇権の中心が清から日本へ移動した。朝鮮は明治 30 年(1897 年)に大韓帝国を称して独立を宣言するが、その独立を支える力は急速に日本一色に傾いていく。
関連する偉人とその役割
川上 操六(参謀本部次長 / 陸軍中将)
「陸軍の頭脳」と称された薩摩出身の参謀。明治 22 年(1889 年)から参謀本部次長を務め、日清戦争では大本営の作戦立案を実質的に統括した。ドイツ・ベルリン陸軍大学校でメッケル少佐に学んだドイツ式戦略思考を駆使し、平壌の戦いから旅順攻略までの大陸作戦を陸軍中央から指揮。戦後、大功一等として男爵(後に子爵)を授爵された。明治 30 年(1897 年)に陸軍大将・参謀総長に就任、対露作戦計画の策定を進めるが、明治 32 年(1899 年)5 月、胃癌により 50 歳で病没。日露戦争開戦の 5 年前の早すぎる死であった。本霊園 1種イ13号13側に眠る。
山本 権兵衛(海軍大臣官房主事 / 海軍大佐)
日清戦争時点では海軍大臣官房主事として、海軍内部の人事・組織改革の中核にあった。戦争中は西郷従道海軍大臣の下で艦隊運用と人事を支え、豊島沖海戦・黄海海戦の勝利を後方で支える役割を担う。戦後の明治 31 年(1898 年)から海軍大臣に就任し、対露戦に備える六六艦隊(戦艦 6・装甲巡洋艦 6)の整備に着手。日清戦争で得た賠償金の一部は海軍拡張に投入された。後年、第 16 代・第 22 代の内閣総理大臣を歴任し、戦前日本の海軍と政党政治の制度設計を担う。本霊園 1種イ9号26側に眠る。
川路 利良(警視庁初代大警視 — 制度面の先駆者として)
日清戦争開戦時点で川路はすでに 15 年前に没していた(明治 12 年/1879 年 10 月 13 日死去、享年 45)。したがって戦争そのものへの直接関与はないが、川路が明治 7 年(1874 年)に設立した警視庁と、フランス警察を範に整備した近代警察制度は、戦時下の治安維持・スパイ取締り・物資輸送統制を支える国家基盤として機能した。「警察は国家の眼であり、耳である」と説いた川路の信条は、戦時動員体制を支える内務省・警察行政の根本思想として戦前日本に継承された。本霊園 1種イ4号1側に眠る。