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三・一独立運動


朝鮮で「独立宣言書」が読み上げられ、京城・平壌など全土で大規模な独立運動が発生。第二代朝鮮総督・長谷川好道のもとで武力鎮圧されたが、犠牲者多数を出し、後の文化政治への転換と斎藤実総督就任の契機となった。

1919 年 3 月 1 日、京城・パゴダ公園での独立宣言朗読
1919 年 3 月 1 日、京城・パゴダ公園での独立宣言朗読 ja:User:Cinnamon (his own work) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
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パゴダ公園から全土へ広がった独立宣言

大正八年(一九一九)三月一日午後二時、京城(現ソウル)中心部のパゴダ公園(現タプコル公園)で、青年学生たちの前に独立運動の指導者を代表する一人が現れ、「独立宣言書」が高らかに読み上げられた。同時刻、市内の太華館では民族代表三十三人(天道教・キリスト教・仏教の宗教指導者を中心に構成)が独立宣言式を行い、自ら朝鮮総督府警察に通告して逮捕される。宣言書朗読の知らせは一瞬で京城市内に伝わり、数万の群衆が「大韓独立万歳」を叫びながら市街地を行進し始めた。三・一独立運動の幕開けである。

運動は数日で京城から平壌・元山・釜山・大邱など全道府県に拡大し、三月から五月までの三か月間で、参加人員は朝鮮側統計で延べ二〇〇万人超、検挙者数四万六〇〇〇人余、死者七五〇〇人前後、負傷者一万六〇〇〇人前後という、植民地統治史上類例のない規模に達した。当時の朝鮮総督・長谷川好道(陸軍元帥)はこれを軍隊と憲兵により武力鎮圧する道を選択する。事件は朝鮮植民地統治の根本的転換、すなわち「武断政治」から「文化政治」への移行と、長谷川総督から斎藤実総督への交代を引き起こすことになった。

背景 — 民族自決とパリ講和会議

運動勃発の国際的背景には、第一次世界大戦の終結とパリ講和会議があった。アメリカ大統領ウィルソンが大正七年(一九一八)一月の「十四か条の平和原則」で提唱した民族自決(self-determination)の理念は、被支配下のアジア・東欧諸民族に強い希望を与えた。同年十一月の独休戦・大正八年一月のパリ講和会議開催を機に、朝鮮独立運動家たちは「今こそ朝鮮独立の主張を国際社会に届ける機会である」と判断し、上海・東京・京城の三拠点で連携して運動計画を進める。

直接の引き金となったのは大正八年一月二十一日の高宗(李太王、旧大韓帝国第二十六代国王)の崩御である。日本による毒殺との風聞が朝鮮人社会に広がり、民族感情を一気に煮立たせた。葬儀(国葬)は三月三日に予定されており、参列のために全国から多数の人々が京城に集まることが見込まれていた。独立宣言を三月一日に設定したのは、この群衆の集中を最大限活用するための戦術的判断であった。

宣言文の起草は朝鮮を代表する近代知識人・崔南善(チェ・ナムソン)が担当した。「吾等ハ茲ニ我朝鮮ノ独立国タルコト及朝鮮人ノ自由民タルコトヲ宣言ス」で始まる格調高い漢文体の文章は、武力ではなく「公明正大」な独立を訴える非暴力主義を基調としていた。

経過 — 三月から五月までの全土波及と武力鎮圧

三月一日の京城・平壌・元山・宣川での同時蜂起を皮切りに、運動は急速に拡大する。三月上旬は都市部の学生・知識人が中心であったが、中旬以降には農村部の農民層へと参加層が広がり、四月にかけて全朝鮮十三道で連日数万人規模のデモが続いた。朝鮮総督府の集計でも三月から五月までに発生したデモは一五〇〇件超、参加道府郡は二一一の府郡中二一一すべてに及んだ。

長谷川好道総督と山県伊三郎政務総監はこれを徹底的に弾圧する方針を打ち出す。陸軍歩兵約六個大隊と憲兵隊・警察を動員し、デモ隊への発砲・斬撃・大規模検挙を実施した。中でも四月十五日の堤岩里(チェアムニ)事件 — 京畿道水原郡の村で、住民を教会堂に集めて施錠し放火・銃撃して二九名を虐殺した事件 — は、海外宣教師らの告発を通じて欧米世論に深刻な衝撃を与えた。同様の虐殺事件は天安・水原・益山など各地で報告された。

朝鮮側統計では三月から五月の三か月間で、死者七五〇九人・負傷者一万五九六一人・検挙者四万六九四八人・焼失家屋七一五戸・焼失教会四七・焼失学校二。日本側総督府の公式統計はこれを大幅に下回るが、独立運動の規模と弾圧の苛烈さについては内外いずれの記録も一致している。

影響 — 武断政治から文化政治へ、斎藤実総督の就任

事件は日本の朝鮮統治政策に根本的な見直しを迫った。原敬首相と山県有朋元老は、長谷川好道総督・山県伊三郎政務総監の責任を問い、両者を更迭する方針を決定。明治四十三年(一九一〇)の韓国併合以来九年間続いた憲兵警察による軍政的統治(いわゆる武断政治)の限界が露呈したと判断された。

大正八年八月十二日、長谷川は朝鮮総督を辞任し、後任には海軍大将・斎藤実が就任する。同月二十日に公布された官制改革により、(一)総督武官専任制の廃止(文官にも開放、ただし実際は終戦まで武官が継続)(二)憲兵警察制度の廃止と普通警察への一元化(三)朝鮮人官吏・教員の登用拡大(四)朝鮮語新聞(東亜日報・朝鮮日報)の発行許可(五)笞刑廃止 — などが順次実施され、いわゆる「文化政治」が始まる。

文化政治は植民地統治の本質を変えるものではなく、より洗練された同化政策への移行に過ぎないとの批判もあるが、表現空間の一部開放は朝鮮人ナショナリズムの言論的・文化的成熟を促し、後の朝鮮民族運動・上海大韓民国臨時政府(大正八年四月十一日樹立)の組織化に大きな影響を与えた。

国際的には、運動の弾圧をめぐる欧米キリスト教界の批判が日本外交にとって長期的な負担となり、続く昭和期の対米関係悪化の一因となる。事件は中国における五・四運動(大正八年五月四日)とも時間的・思想的に連動しており、東アジア全域での民族運動の高揚を象徴する事件として位置づけられている。今日、韓国では三月一日を「三一節」として国家祝日(独立記念日)に指定し、ソウル・パゴダ公園には独立宣言書を刻んだ石碑と独立運動記念展示が整備されている。

参考資料

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