E V E N T

パリ講和会議開幕


第一次世界大戦の戦後処理会議が開幕。日本全権は西園寺公望・牧野伸顕ら、人種的差別撤廃条項を提案するも採択されず、ベルサイユ条約締結(同年 6 月)に至る。

Ministry of Foreign and European Affairs, Paris August 2008
Ministry of Foreign and European Affairs, Paris August 2008 Simdaperce / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
日付
カテゴリ
条約

日本が初めて世界政治の卓に着いた会議

パリ講和会議は、大正 8 年(1919 年)1 月 18 日にフランス・パリのケ・ドルセー(仏外務省)で開幕した、第一次世界大戦(1914-1918 年)の戦後処理国際会議である。連合国 27 か国が参加し、敗戦国ドイツ・オーストリア・ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国との講和条約を策定した。最重要のベルサイユ条約は同年 6 月 28 日に調印され、第一次世界大戦は正式に終結した。

会議の最高意思決定機関である「五大国会議」を構成したのは、米・英・仏・伊・日。日本は初めて、世界政治のトップテーブルに招かれた国家として参加した。日本側首席全権は元老・西園寺公望(当時 70 歳)、次席全権が牧野伸顕(当時 57 歳、本霊園に眠る)、随員に近衛文麿・吉田茂(後の戦後首相、牧野の女婿)らがいた。

会議で日本が掲げた要求は二つ。第一に、山東半島の旧ドイツ権益の継承。これは認められ、第一次大戦参戦の戦果を確保した。第二に、国際連盟規約への人種的差別撤廃条項の挿入。これは却下された。20 世紀初頭の世界で、非白人国家が人種平等を国際的制度として要求した最初の試みであり、20 世紀後半のアジア・アフリカ植民地独立運動の原型の一つとして、現在でも歴史的に再評価されている。

背景 — 第一次世界大戦と日本の参戦

第一次世界大戦は大正 3 年(1914 年)7 月、欧州で勃発した。日本は同年 8 月、当時の外相・加藤高明の主導で日英同盟を根拠として参戦。山東半島(青島)のドイツ軍を 11 月に降伏させ、南洋諸島のドイツ領も占領した。欧州戦線への参戦は限定的だったため、戦時景気で日本経済は大幅に潤い、債務国から債権国へと地位を一気に転換させた。

そして大正 8 年(1919 年)1 月、戦勝国としてパリ講和会議に席を得る。日本にとって、世界の主要国会議に「五大国」として参加するのは初めての経験だった。明治日本が日英同盟ポーツマス条約と段階を踏んで築いた国際的地位が、ここで一つの頂点に達した。

1 月 18 日 — 会議開幕

大正 8 年(1919 年)1 月 18 日、パリ・ケ・ドルセー(仏外務省)の時計の間で講和会議が開幕。米大統領ウィルソン、英首相ロイド・ジョージ、仏首相クレマンソー、伊首相オルランドが「四巨頭」と呼ばれ会議を主導した。日本側は西園寺公望・牧野伸顕の両全権が出席したが、西園寺は高齢で実務交渉に出ることは少なく、実質的に交渉を仕切ったのは牧野伸顕だった。

会議の核心は次の四つ。

  1. ドイツに対する講和条件(領土・賠償金・軍縮)
  2. 国際連盟の創設(ウィルソンの 14 か条提案に基づく)
  3. 旧オスマン帝国・オーストリア=ハンガリーの解体と中東欧の国境再画定
  4. 旧ドイツ植民地・占領地の処分(山東半島・南洋諸島・アフリカ)

日本は山東半島の旧ドイツ権益継承を強く主張した。中国(北京政府代表団は会議に参加していた)はこれに反発、ウィルソン米大統領も道徳的立場から日本要求を疑問視したが、最終的には日本主張が通った。これに反発した中国国内で同年 5 月 4 日、五・四運動が勃発、北京の学生デモから全国的反日・反帝運動に発展した。

人種的差別撤廃提案 — 過半数賛成でも却下

会議が始まると、牧野は国際連盟規約委員会で人種的差別撤廃条項の挿入を提案した。これは、当時アメリカ・カナダ・オーストラリアで進んでいた日本人移民排斥への日本政府の応答だった。1907 年の米国・日本紳士協約以来、米西海岸での日本人土地所有禁止・移民制限が拡大しつつあり、日本国内には強い不満があった。

牧野の提案は次の趣旨である:「締約国の国民に対し、人種・国籍の如何を問わず、法律上または事実上、何らの区別をも設けざることを国際連盟の根本原則と為す」。

4 月 11 日の規約委員会採決で、提案は 16 か国中 11 か国の賛成を得た。過半数(賛成多数)である。しかし議長のウィルソン米大統領は「重大事項には全会一致を要する」と宣言してこの提案を却下した。ウィルソンの判断には、米国内の対日感情(西海岸の排日運動)と、英国を経由した英自治領(オーストラリア・カナダ)の反対が重く影響していた。

牧野は会議終了後、「人種平等の原則は今日の理想として未だ達成せざるも、必ずや将来において実現を見るべし」と声明した。実際、人種平等の国際的承認は 46 年後の国連人権宣言(1948 年)と公民権運動(1960 年代)まで待たねばならなかった。

ベルサイユ条約調印

大正 8 年(1919 年)6 月 28 日、ベルサイユ宮殿の鏡の間で対独講和条約(ベルサイユ条約)が調印された。日本側からは西園寺公望・牧野伸顕・珍田捨巳・松井慶四郎・伊集院彦吉の 5 名が署名。日本は山東半島の旧ドイツ権益継承、南洋諸島の委任統治権、国際連盟常任理事国の地位を獲得した。

ただし、ベルサイユ条約の対独賠償金規定(1320 億金マルク)とドイツ軍備制限条項は、後にナチス・ドイツ台頭の遠因となり、第二次世界大戦への伏線を含んでいた。第一次大戦の戦後処理は、ここで完成すると同時に、次の世界大戦の種子も蒔いていた。

歴史的影響

  1. 日本の国際的地位の頂点 日本は五大国の一角・国際連盟常任理事国として、戦前期日本外交の頂点に立った。この地位は、満州事変(1931 年)による国際連盟脱退(1933 年)まで約 14 年間保持された。

  2. 五・四運動と中国民族主義の覚醒 山東権益移譲への反発が発端となった五・四運動は、中国共産党結党(1921 年)・国民革命(1925-1928 年)へと連なる、中国近現代史の起点となった。日中関係の構造的緊張も、ここに源流を持つ。

  3. 人種的差別撤廃提案の歴史的意義 却下されたとはいえ、非白人国家が世界政治の場で人種平等を制度として要求したという事実は、戦間期から戦後にかけてのアジア・アフリカ民族運動に影響を与え続けた。インド独立運動・パン・アフリカ運動の指導者たちも、この提案を引用している。

  4. ワシントン体制への移行 ベルサイユ体制は欧州を主舞台としており、太平洋・東アジアの戦後秩序は不十分だった。これを補完するため、3 年後にワシントン会議(1921-1922 年)が開催され、ワシントン体制が成立する。パリ → ワシントンと続く 1920 年代の国際協調が、戦間期日本の比較的安定した位置を支えた。

関連する偉人とその役割

牧野 伸顕(日本側次席全権)

大久保利通の次男、薩摩出身、東京大学法学部中退の外交官・政治家。文部・農商務・外務大臣を歴任した後、パリ講和会議の次席全権として実質的に日本交渉団を指揮した。

首席全権の西園寺公望(70 歳)が体調と立場上、実務交渉に直接出ることが少なかったため、規約委員会・最高会議における日本主張の実際の擁護者は牧野だった。人種的差別撤廃提案を提出し、その理念を 20 世紀の国際政治の議題として記録に刻んだ。

帰国後は宮内大臣(1921-1925)・内大臣(1925-1935)として昭和天皇の最側近となり、軍部に対するリベラル派宮中重臣の中核を担った。長女・雪子の夫は戦後首相・吉田茂、孫娘・麻生和子は二・二六事件の際に湯河原で 75 歳の祖父・牧野を裏山に逃した。本霊園 1 種ロ 8 号 1・14 側に眠る。

関連する作品

  • 服部龍二『広田弘毅』(中公新書、2008 年) — パリ講和会議に若き随員として参加した広田弘毅の伝記。会議の雰囲気と当時の日本外交陣の人間模様が描かれる
  • 牧野伸顕『回顧録』(中公文庫、1977 年) — 牧野本人によるパリ講和会議の回想を含む回顧録
  • 北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会、1978 年) — パリ講和会議における山東権益問題と陸軍の関与を分析

参考資料

← 事件一覧に戻る