加藤 高明 (1860-1926)の肖像
加藤 高明の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

加藤 高明

かとう たかあき

Kato Takaaki

第24代内閣総理大臣。憲政会総裁として護憲三派内閣を組織し、普通選挙法を成立させた外交官出身の政党政治家。

生没年
出身地
尾張国愛知郡(現・愛知県名古屋市)
死没地
東京
時代
明治・大正
役職
第24代内閣総理大臣
爵位
伯爵
出身校
東京大学法学部
所属
憲政会 / 立憲同志会
区画
1種ロ8号1・14側
タグ
内閣総理大臣 / 憲政会 / 普通選挙法 / 護憲三派

普通選挙法を成立させた首相

加藤高明は、第 24 代内閣総理大臣にして憲政会総裁。男子普通選挙制度(満 25 歳以上の男子全員に選挙権)を成立させた首相として、戦前日本の民主主義を一段階押し上げた政治家である。

普通選挙法(1925 年 5 月)は、有権者数を約 4 倍(307 万人 → 1240 万人)に拡大した制度改革で、戦後の女性参政権実現(1945 年)に至るまで日本史上最大の選挙権拡大だった。この大改革を、加藤は護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)の盟主として実現した。同時期に成立した治安維持法(1925 年 4 月)で思想統制の枠組みを整えた負の側面と合わせて、大正デモクラシーの最後の頂点を象徴する政権だったといえる。

経歴は東京大学法学部首席卒業 → 三菱入社 → 岩崎弥太郎(三菱創業者)の長女・春路と結婚 → 官界転身 → 駐英公使 → 外相 4 度 → 首相、というエリート街道で、もう一つの顔は外交官だった。大正 3 年(1914 年)の第一次世界大戦参戦判断、翌 1915 年の対華 21 ヶ条要求 — これらは加藤が外相として主導した。中国近現代史で日本帝国主義の象徴的事件として記憶される後者の責任も、加藤の名と切り離せない。

そして大正 15 年(1926 年)1 月 28 日、現職首相のまま官邸で死去。享年 67(満 66)。在職中の自然死であり、戦前日本の首相としては数少ない「生きて職務中に倒れた」例の一つである。

三菱の女婿、外交官として

万延元年(1860 年)、尾張藩士・服部重文の次男として尾張国愛知郡(現・名古屋市)に生まれ、加藤家の養子となる。東京大学法学部を首席で卒業し、卒業と同時に三菱に入社。岩崎弥太郎の長女・春路と結婚し、岩崎家の女婿となった。

明治 20 年(1887 年)に官界へ転じ、駐英公使館書記官、外務省政務局長、駐英公使などを歴任。第一次大隈重信内閣・第四次伊藤博文内閣・第一次西園寺公望内閣・第三次桂太郎内閣で 4 度の外相を務めた。日本史上、外相を 4 度務めた人物は他に例がない。

第一次世界大戦勃発時の大正 3 年(1914 年)、加藤は外相として日英同盟を根拠とする対独参戦を主導。翌 1915 年には対華 21 ヶ条要求を中国に突きつけ、山東半島の旧ドイツ権益継承・南満洲利権の延長などを認めさせた。この要求は中国の反日感情を決定的に高め、五・四運動(1919 年)へと連なる東アジア国際関係の暗い扉を開いた。加藤の外交家としての評価は、この事件によって二分される。

第二次護憲運動と「護憲三派」の盟主

大正 5 年(1916 年)、桂太郎が組織した立憲同志会の総裁を継ぎ、後に憲政会と改称して党勢を伸ばした。だが大正後期の政界は元老・山県有朋の影響下にあり、加藤が首相の座に就くまで長い時間がかかった。

転機は大正 13 年(1924 年)の清浦奎吾内閣 — 貴族院中心の超然内閣の成立である。これに対し、加藤(憲政会)・高橋是清(政友会)・犬養毅(革新倶楽部)が「護憲三派」を組織し、第二次護憲運動を起こした。総選挙で勝利し、同年 6 月、加藤は第 24 代内閣総理大臣に就任。

加藤内閣は短命ながら大改革を立て続けに実行した。①普通選挙法(1925 年 5 月)、②治安維持法(1925 年 4 月)、③日ソ基本条約(1925 年 1 月、対ソ国交樹立)、④陸軍 4 個師団削減。普選法と治安維持法は同時期に成立しており、「自由を広げると同時に、その自由が国体変革に向かわないよう枠をはめる」という、戦前日本独特の二面性を体現していた。

官邸で倒れる

大正 14 年(1925 年)8 月、護憲三派が解消され、加藤は憲政会単独内閣を組織。続く議会運営の激務の中、加藤の健康は急速に蝕まれていった。

大正 15 年(1926 年)1 月 22 日、議会開会式に出席した直後に体調を崩し、5 日後の 1 月 28 日、首相官邸で死去。享年 67(満 66)。現職首相としての死は、原敬(暗殺、1921 年)に続く 2 例目だった(原は暗殺死、加藤は病死)。

血族の著名人

加藤高明は明治日本最大の財閥・三菱の創業家、岩崎家と姻戚関係にある。

加藤の政治的キャリアは三菱という財閥のバックアップなしには考えられず、明治・大正期の政界と財界の結びつきを象徴する家系である。

逸話・エピソード

「人を信用しない男」 — 一人で執務する首相

加藤は周囲から「人を信用しない男」と評され、首相在任中も重要書類はほぼ一人で読み込み、決裁し、側近にすら相談しない癖があった。これは三菱・外務省時代から培われた潔癖な性格に由来するが、護憲三派内閣という連立政権を率いる立場としては致命的に見える特徴でもあった。それでも普通選挙法治安維持法・日ソ国交樹立まで一気に走らせた背景には、「合議は時間を浪費する、判断は一人で下す」という官僚出身の彼独自の流儀があった。

岩崎弥太郎の女婿という出自

加藤の妻・春路は三菱創業者・岩崎弥太郎の長女。明治 19 年(1886 年)の結婚は、英国留学から帰国したばかりの若手外交官と財閥令嬢の婚姻として注目を集めた。三菱の経済力が加藤の長い外交官人生・政治活動を支えたことは公然の秘密で、政敵からは「三菱内閣」と揶揄された。しかし加藤自身は、岩崎家からの財政支援を受けながらも、政策判断において財閥利益に与することは一度もなく、「岩崎の婿だからこそ、三菱を特別扱いしない」と公言したと伝わる。

議会開会式直後の倒壊 — 最後の出勤

大正 15 年(1926 年)1 月 22 日の議会開会式に病を押して出席した加藤は、議場での寒さに耐えながら職務を果たした後、官邸に戻って執務机に向かったまま体調を崩した。「議会こそ政治家の戦場である」と日頃から語っていた加藤にとって、議会開会式への出席は譲れない一線だった。その 5 日後、彼は同じ官邸で息を引き取る。「議会のために最後の力を使い切った首相」として、当時の新聞は彼の死を惜しんだ。

青山霊園に眠る

加藤高明の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側。同じ「1種ロ8号」の区画には、護憲三派の同志・犬養毅、後継の民政党を率いた浜口雄幸井上準之助牧野伸顕の墓が並ぶ。大正デモクラシーから昭和初期の政党内閣制へと続く時代を率いた政治家たちが、ここで隣り合って眠っている。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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