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国際連盟脱退通告


国際連盟臨時総会で満洲国不承認決議が四十二対一で採択されたことを受け、日本政府は国際連盟脱退を正式通告。首席全権の松岡洋右が議場から退場した姿は世界中に報じられた。日本は国際協調体制から自ら離脱し、孤立への道を歩み始めた。

Yohsuke matsuoka1932
Yohsuke matsuoka1932 犬養内閣編纂所 / Wikimedia Commons / Public domain
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条約

議場から退場した松岡洋右

昭和八年(一九三三)三月二十七日、日本政府は国際連盟事務総長宛に脱退を正式通告した。発端は二月二十四日の国際連盟臨時総会で、四十二対一(反対は日本のみ、棄権はシャム[現タイ]の一国のみ)の圧倒的多数で満洲国不承認を含むリットン報告書の勧告が採択されたことであった。日本首席全権の松岡洋右は採決後の演説で「日本国政府ハ茲ニ其見解ヲ表明スル」と述べた後、日本代表団を率いて議場を退場した。スイス・ジュネーブの国際連盟議場で日本代表団が大股で歩み去る映像は世界中の新聞に掲載され、満州事変以来の日本の孤立路線を象徴する一場面として歴史に刻まれた。

背景 — リットン調査団報告書と国際社会の判断

満州事変勃発(一九三一年九月十八日)を受け、国際連盟は一九三二年一月、英国のリットン伯爵を団長とする調査団を派遣。同年九月、約二〇〇頁の報告書を提出した。報告書は「九月十八日の関東軍の軍事行動は自衛行動とは認められない」「満洲国は住民の真の意思による独立国家ではなく日本の傀儡である」と認定する一方、日本の満蒙特殊権益は認めて緩衝的な解決を提案するものであった。日本政府(斎藤実内閣)は満洲国不承認を絶対に受け入れられないとの立場を固持し、リットン報告書の採択を阻止するための徹底抗戦を松岡に指示した。

経過 — 連盟脱退の決断と国内世論の熱狂

国際連盟は一九二〇年に発足した戦間期国際協調体制の中核であり、日本は常任理事国の地位を有していた。脱退は単なる外交カードではなく、第一次大戦後にウィルソン米大統領が提唱した国際協調主義そのものとの決別を意味した。にもかかわらず日本国内では連盟脱退を讃える世論が支配的であった。新聞各紙は「堂々の退場」を讃え、議会も超党派で松岡の行動を支持。一九三一年九月以来の満洲問題を巡る屈辱的な国際的孤立感が、脱退によって一気にカタルシスとして発散された格好であった。松岡は帰国時に英雄として迎えられ、後の首相候補として政治的存在感を急上昇させた。

影響 — 孤立外交から枢軸国陣営への道

国際連盟脱退の効力は通告から二年後の一九三五年三月二十七日に発生。日本は戦間期国際協調体制から完全に離脱し、同様に脱退したドイツ(一九三三年十月)・イタリア(一九三七年十二月)と組む枢軸国外交へと舵を切る。日独防共協定(一九三六)、日独伊三国同盟(一九四〇)へと連なる道のりである。本霊園に眠る松岡洋右は脱退劇の主役として時代の寵児となり、一九四〇年に第二次近衛文麿内閣の外相に就任。三国同盟と日ソ中立条約の締結を主導するが、独ソ戦勃発(一九四一年六月)で外交構想は破綻し、太平洋戦争直前に外相を更迭された。連盟脱退の壇上での退場劇から、わずか八年後の悲劇であった。

参考資料

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