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日独伊三国同盟締結


外相・松岡洋右がベルリンで日独伊三国軍事同盟に調印。第2次近衛内閣の対米強硬路線を象徴、日米開戦への分岐点となった。

Matsuoka besøger Hitler
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条約

ベルリンで結ばれた枢軸の輪

日独伊三国同盟は、昭和 15 年(1940 年)9 月 27 日、ドイツ・ベルリンの総統官邸で、日本・ドイツ・イタリアの 3 国が締結した軍事同盟条約である。日本側全権は外相・松岡洋右(本霊園 1種イ 3 号 1 側)、ドイツ側はリッベントロップ外相、イタリア側はチャーノ外相。締約 3 国のいずれかが現在欧州戦争・日中戦争に参戦していない国(暗黙のうちに米国を指す)から攻撃された場合、相互に軍事援助を行うことを定めた。

この条約は、五・一五事件(1932 年)・国際連盟脱退(1933 年)・日中戦争開始(1937 年)と続いた戦前日本の国際的孤立路線の到達点であり、同時に翌昭和 16 年(1941 年)12 月の真珠湾攻撃へと至る対米開戦の決定的分岐点となった。「ベルリンの調印式から真珠湾の朝まで、わずか 14 か月」 — この時間軸が、戦前日本外交の最後の選択を象徴している。

背景 — 欧州戦争と独ソ不可侵条約

事件の直接の背景は、昭和 14 年(1939 年)以降の欧州情勢の激変である。同年 8 月、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結。日本はこのとき防共協定相手のドイツがソ連と組んだことに衝撃を受け、平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」の声明を残して総辞職した。続いて 9 月のドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発、翌昭和 15 年 5 月にはドイツがフランスを 6 週間で屈服させた。

ドイツの圧倒的勝利を見た日本国内では、「バスに乗り遅れるな」のスローガンが拡がった。ドイツと結べば仏領インドシナ・蘭領東インドの権益を獲得でき、米英を牽制できる、という構想である。陸軍は親独路線を強硬に推進、海軍も米内光政らの慎重派が後退し、近衛文麿が「新体制運動」を掲げて第二次内閣(昭和 15 年 7 月組閣)を発足させた。

外相に就任したのが松岡洋右である。国際連盟脱退時の首席全権としてジュネーブを去った「英雄」松岡は、満鉄総裁を経て政界に転じ、「枢軸 + ソ連」という大連合で米英に対抗する構想を温めていた。三国同盟は、その構想の第一段だった。

昭和 15 年 9 月 27 日 — ベルリン総統官邸での調印式

調印式は昭和 15 年 9 月 27 日午後 1 時、ベルリンの総統官邸で行われた。日本側全権は駐独大使・来栖三郎、ドイツ側はリッベントロップ外相、イタリア側はチャーノ外相。条約本体は東京・近衛邸でも同日同時に松岡外相が署名した。

条約は前文で「世界平和の維持」を謳いつつ、第 3 条で「三国の一国が現在の欧州戦争または日中紛争に参加していない一国から攻撃された場合、あらゆる政治的・経済的・軍事的方法により相互に援助する」と定めた。仮想敵が米国であることは欧米のすべての観察者にとって明白だった。

調印を受けて、東京・日比谷では祝賀の旗行列が組まれ、近衛内閣は「枢軸外交の確立」を高らかに宣言した。米国・英国・中華民国・オランダの 4 か国は強い警戒を表明、特にローズベルト米大統領は対日経済制裁の本格化(石油・屑鉄の輸出許可制移行)を加速させ、後の ABCD 包囲網へとつながる。

歴史的影響

  1. 対米開戦への扉 — 三国同盟は米国側に「日独伊枢軸」という明確な敵対構造を提供した。米国は中立法の解釈を変更してチャーチル英政権への武器貸与法を成立させ、太平洋では対日石油禁輸へと段階を踏んで進む。ハル・ノート(1941 年 11 月 26 日)はこの延長線上にあり、真珠湾攻撃の直接の引き金となった。

  2. 松岡外交の頂点と崩壊 — 松岡は翌昭和 16 年 3 - 4 月の欧州歴訪でモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を調印(1941 年 4 月 13 日)。これで「枢軸 3 国 + ソ連」の大連合という構想は形式上完成した。だが 2 か月後の 6 月 22 日、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻(独ソ戦勃発)、松岡の設計図は崩壊する。7 月、近衛は内閣を総辞職して松岡を外し、第三次近衛内閣を組閣した。

  3. 海軍内の分裂 — 米内光政・山本五十六・井上成美ら「条約派」海軍は最後まで三国同盟に反対した。米内は「米国と戦って勝てる見込みはない」と公言、山本は連合艦隊司令長官として開戦を回避するための奮闘を続けた。だがすでに勢いを得た親独・対米強硬派を押し戻すことはできなかった。

  4. 戦後の枢軸国としての処断 — 三国同盟締約国というステータスは、戦後の東京裁判で日本を「枢軸国の一員として共同謀議に加担した」と認定する重要な法的根拠となった。松岡洋右は A 級戦犯として起訴され、公判中に病死した。

関連する偉人とその役割

松岡 洋右(外務大臣 / 三国同盟調印の主導者)

山口県光市出身、13 歳で渡米しオレゴン州立大学を卒業した米国通の外交官。国際連盟特別総会(1933 年 2 月)で「我が代表団は本日ジュネーブを去ります」と宣言して退場、国際連盟脱退の象徴的人物となった。満鉄総裁を経て第二次近衛内閣の外相に就任、三国同盟・日ソ中立条約を相次いで主導した。

「米国を最もよく知る日本人」が、その米国との衝突を不可避と見て対米強硬路線を取った屈折は、戦前日本外交の最後の物語そのものである。独ソ戦勃発で構想が崩壊した後、近衛内閣総辞職とともに失脚。戦後 A 級戦犯として起訴されたが、結核の悪化により昭和 21 年(1946 年)6 月 27 日、公判中に病死した。享年 66。本霊園 1種イ 3 号 1 側に眠る。

関連する作品

  • 三輪公忠『松岡洋右 — その人間と外交』(中公新書、1971 年) — 松岡外交の合理性と限界を実証的に分析した古典的研究
  • NHK 大河ドラマ『山河燃ゆ』(1984 年) — 山崎豊子原作、三国同盟締結から戦後東京裁判までを日系米国人家族の視点で描く。三国同盟の調印場面も登場
  • 半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー、2009 年) — 三国同盟締結の意思決定過程を、近衛・松岡・陸海軍の関係性で解き明かす

ベルリンの旧総統官邸跡(ヴィルヘルム街)は現在は記念碑のみ残るが、当時の調印式の写真は数多く現存している。リッベントロップ・チャーノ・来栖が並ぶ写真は、わずか 5 年後にすべての締約国が敗戦することになる枢軸の輪を、最も鮮明に記録している。

参考資料

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