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サンフランシスコ平和条約発効


前年(1951 年)9 月 8 日に調印された対日講和条約が発効、連合国軍占領が終わり日本が主権を回復。宮澤喜一は若手随員として 1951 年調印式に参加していた。

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂首席全権
サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂首席全権 Wikimedia Commons / Public domain
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条約

主権回復 — 占領 6 年 8 か月の終わり

サンフランシスコ平和条約は、昭和 26 年(1951 年)9 月 8 日に米国サンフランシスコのオペラハウスで日本と連合国 48 か国が調印し、昭和 27 年(1952 年)4 月 28 日午後 10 時 30 分(日本時間 4 月 29 日午前 11 時 30 分)に発効した、対日講和条約である。

発効により、昭和 20 年(1945 年)9 月 2 日の降伏文書調印以来 6 年 8 か月続いた連合国軍占領が終了し、日本は国際法上の主権を回復した。同時に締結された日米安全保障条約(同日発効)に基づいて、米軍は占領軍から「同盟駐留軍」に立場を変え、日本本土への米軍駐留が継続することになる。条約から除外された沖縄・小笠原諸島は引き続き米国の施政権下に置かれた(沖縄返還は 1972 年、小笠原返還は 1968 年)。

調印に至るまでの交渉では、講和方式・領土・賠償・安全保障の各点で激しい議論があった。ソ連・中華人民共和国・中華民国を含めた「全面講和」を主張する立場(社会党・知識人ら)と、自由主義陣営との「単独講和」(多数講和)を主張する立場(吉田茂内閣・米国)が衝突したが、最終的に後者の路線で 48 か国との講和が成立した。

背景 — 冷戦と朝鮮戦争

事件の背景は、1947 年以降本格化した米ソ冷戦と、1950 年 6 月に勃発した朝鮮戦争である。

第二次世界大戦終結直後、米国の対日占領政策は「日本の徹底的非武装化と民主化」を基調としていた。だがソ連の東欧支配・中国共産党の国共内戦勝利(1949 年 10 月)・朝鮮戦争勃発(1950 年 6 月)で東アジア情勢が冷戦化すると、米国は方針を「日本を西側陣営の同盟国として早期復興させる」に転換した。「逆コース」と呼ばれるこの政策転換が、講和条約への扉を開いた。

ジョン・フォスター・ダレス国務省顧問が対日講和交渉を主導し、1950 年から日本側(吉田茂首相・西村熊雄外務省条約局長ら)と接触。賠償の最小化・領土条項の簡素化・在日米軍駐留の継続を柱とする「寛大な講和」案を提示した。これに対し中ソ・中国は強く反発、ソ連は調印を拒否、中華人民共和国は調印会議に招請されず、中華民国(台湾)とは日華平和条約を別途締結(1952 年 4 月 28 日、講和条約発効の数時間前)することになった。

昭和 26 年 9 月 8 日 — サンフランシスコ・オペラハウス

調印式は昭和 26 年(1951 年)9 月 8 日午前 10 時から、サンフランシスコのオペラハウス(現・War Memorial Opera House)で開催された。会議の正式名称は「対日講和会議」(Conference for the Conclusion and Signature of the Treaty of Peace with Japan)。51 か国が招請され、48 か国が調印した(ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは出席しつつ調印せず)。

日本側全権は吉田茂首相を首席とする一行 6 名。吉田・池田勇人蔵相・苫米地義三参議院議長・星島二郎衆議院議員・徳川宗敬参議院議員・一万田尚登日銀総裁。随員には外務省・大蔵省の若手官僚多数が含まれ、その中に当時 31 歳の大蔵省主計局事務官・宮澤喜一(本霊園 1種ロ 17 号 12 に眠る)がいた。宮澤は池田勇人蔵相の秘書として渡米、流暢な英語と国際感覚で対米交渉の現場に立ち会った。「最後の昭和の宰相」と後年呼ばれることになる宮澤の、戦後外交における原体験である。

吉田茂の演説(英語)は短く、講和の意義と日本の決意を述べた。最後に「日本は今日、自由独立の地位を回復し、再び世界の平和と繁栄に寄与する国民となる」と宣言。各国代表が順次調印を行い、午後 6 時 30 分に式典は終了した。

ソ連代表アンドレイ・グロムイコは演壇で講和案を激しく批判して退場、中国(中華人民共和国)は招請されなかった。これらの「未解決問題」は、その後の日ソ・日中関係の長期課題となる。

昭和 27 年 4 月 28 日 — 発効と独立回復

調印から発効までの 7 か月余、日本では国会で批准議論が行われ、衆参両院は与党(自由党・民主党)主導で批准案を可決(衆議院 1951 年 10 月 26 日、参議院 11 月 18 日)。社会党は左派が反対、右派が条件付き賛成と分裂した。

昭和 27 年(1952 年)4 月 28 日午後 10 時 30 分(日本時間 4 月 29 日午前 11 時 30 分)、条約が必要な批准書寄託の手続きを満たして発効。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は同日付で廃止され、ダグラス・マッカーサーは前年 4 月に既にトルーマン大統領に解任されていたが、後任のマシュー・リッジウェイ大将も同日に司令官の任を解かれた。

4 月 28 日夜、東京・新橋では祝賀の旗行列が行われた。だが同時に発効した日米安全保障条約により米軍駐留は継続し、「占領は終わったが日米同盟は始まった」という戦後日本の基本構造がここで確定した。

歴史的影響

  1. 戦後日本の国際社会復帰 — サンフランシスコ平和条約により日本は国際法上の主権を回復し、1956 年の国際連合加盟・1964 年の OECD 加盟・1972 年の沖縄返還へと続く戦後日本の国際社会復帰のスタート地点となった。

  2. 日米同盟体制の確立 — 同日発効した日米安全保障条約により、米軍の日本本土駐留が継続し、戦後日本の安全保障の枠組みが定まった。「軽武装・経済重視・日米同盟」のいわゆる「吉田ドクトリン」が戦後日本の基本路線として確立し、池田勇人・佐藤栄作・宮澤喜一・大平正芳ら宏池会系の首相たちにより継承された。

  3. 未解決問題の累積 — 全面講和を実現しなかったことで、対ソ・対中・対韓関係(日韓基本条約は 1965 年、日中国交正常化は 1972 年、日ソ共同宣言は 1956 年で平和条約は未締結)・領土問題(北方領土・尖閣諸島・竹島)・沖縄基地問題など、多くの未解決課題が後の時代に持ち越された。

  4. 戦争責任の制度的「決着」 — 平和条約第 11 条で日本は東京裁判の判決を受諾し、A 級・BC 級戦犯の処分を継続する義務を負った。一方で第 14 条以下の賠償条項は「日本の経済的存続を可能にする限度」とされ、東南アジア諸国との個別交渉に委ねられた。歴史認識を巡る議論は、この条約の枠組みのまま現代に持ち越されている。

関連する偉人とその役割

宮澤 喜一(大蔵省主計局事務官 / 池田勇人蔵相随員 / 後の第 78 代総理大臣)

東京生まれ・広島県福山市出身、東京帝国大学法学部を経て昭和 17 年(1942 年)に大蔵省入省。戦後の昭和 21 年(1946 年)、主税局長・池田勇人の秘書官となり、サンフランシスコ講和会議(1951 年 9 月)では池田蔵相の随員として吉田茂全権一行に随行した。当時 31 歳。

流暢な英語と国際感覚を武器に、若くして戦後外交の現場に立ち会ったこの経験は、後に宏池会の知性派路線を象徴するものとなる。宮澤は後年「サンフランシスコの調印式は、日本が国際社会に復帰する瞬間に居合わせた人生最大の幸運だった」と回想した。

平成 3 年(1991 年)、第 78 代内閣総理大臣に就任。バブル崩壊・PKO 法成立・コメ市場部分開放・自民党下野(1993 年 6 月)など、戦後日本の節目となる難題を担当した。平成 19 年(2007 年)6 月 28 日に 87 歳で死去するまで「最後の昭和の宰相」と呼ばれた。本霊園 1種ロ 17 号 12 に眠る。同じ青山霊園には宮澤が秘書として仕えた池田勇人(1種イ 1 号 26 側)も眠っており、宏池会の二代の首相が同じ霊園で永眠する配置となった。

関連する作品

  • 五百旗頭真『占領期 — 首相たちの新日本』(読売新聞社、1997 年) — 占領から講和に至る政治過程を吉田茂・幣原喜重郎ら歴代首相の視点で再構成
  • 三浦陽一『吉田茂とサンフランシスコ講和』(大月書店、1996 年) — 講和交渉の対米折衝を実証的に追跡した代表的研究
  • 宮澤喜一『東京-ワシントンの密談』(中公文庫、1999 年) — 当事者宮澤自身による戦後対米交渉史の証言、講和会議の場面も詳述
  • NHK スペシャル『日本の選択 — サンフランシスコ講和への道』(1995 年) — 全面講和か単独講和かを巡る論争を映像で再構成

サンフランシスコのオペラハウス(War Memorial Opera House)は現在も現役のオペラ劇場として使用されており、講和会議の会場として記念プレートが設置されている。日本にとって戦後の出発点となった舞台が、海の向こうのこの劇場の中にある。

参考資料

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