P E R S O N

池田 勇人

いけだ はやと

Ikeda Hayato

第58-60代内閣総理大臣。所得倍増計画を掲げて高度経済成長期の日本を牽引した戦後の大宰相。

生没年
出身地
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)
死没地
東京・国立がんセンター
時代
昭和
役職
政治家
爵位
従二位・大勲位菊花大綬章
区画
1種イ1号26側
タグ
戦後政治 / 高度経済成長 / 所得倍増計画 / 大蔵省 / 自由民主党

「所得倍増」で戦後日本を駆け抜けた宰相

池田勇人は、第58・59・60代内閣総理大臣を務めた、戦後日本の高度経済成長期を象徴する政治家である。広島県の造り酒屋の家に生まれ、京都帝国大学法学部を経て大蔵省に入省。戦前は税務畑の官僚として地味な経歴を歩んだが、戦後の混乱期に大蔵次官に抜擢され、1949年に吉田茂内閣の蔵相として政界入りすると、その経済通としての手腕で頭角を現した。

1960年7月、岸信介の安保闘争退陣を受けて自民党総裁・首相に就任。「私はうそは申しません」を口癖に、政治の季節から経済の季節への転換を打ち出し、同年12月に閣議決定した「国民所得倍増計画」で、10年間で実質国民総生産を倍にするという大胆な目標を掲げた。実際には7年で達成され、戦後日本の高度成長路線の象徴となる。1964年の東京オリンピック直後に喉頭がんで退陣、翌年65歳で死去した。

大蔵省への道 — 落第と病から這い上がる

明治32年(1899年)、広島県の豊田郡吉名村で造り酒屋の四男として生まれる。京都帝国大学法学部を卒業した翌大正14年(1925年)、大蔵省に入省したが、税務署長から本省への栄転を狙う激しい競争の中、池田は地方税務署を転々とする中堅官僚に留まっていた。

昭和4年(1929年)、難病・落葉状天疱瘡を発症して4年余り休職を余儀なくされる。家族の介護を受けながら療養した広島での闘病生活が、彼の人間観・経済観の原点になったとされる。復職後は東京税務監督局長、主税局長と着実に階段を上り、戦後の昭和22年(1947年)、片山内閣の下で大蔵次官に抜擢された。

「所得倍増計画」 — 政治の季節から経済の季節へ

昭和35年(1960年)7月14日、岸信介の退陣を受けて自由民主党総裁に選出、同月19日に第58代内閣総理大臣に就任した。直前の安保闘争で揺れた政界に対し、池田が掲げたのは「寛容と忍耐」と「所得倍増計画」だった。

同年12月27日に閣議決定された「国民所得倍増計画」は、エコノミスト下村治の理論を基礎に、実質GNPを10年で倍増させると宣言した。批判も多かったが、結果は7年で達成。1964年の東海道新幹線開業と東京オリンピック、家電・自動車の普及、太平洋ベルト地帯の重化学工業化 — 戦後日本の繁栄を象徴する出来事は、すべて池田政権下で形を整えた。

「私はうそは申しません」 — 失言と人柄

経済通としての評価とは裏腹に、池田は失言の多い政治家でもあった。蔵相時代の昭和25年(1950年)、参議院本会議で「貧乏人は麦を食え」と取れる発言をして大問題になった(実際の発言は「所得の多い者は米を食う、所得の少ない者は麦を多く食うというような、経済の原則に副うた方へ持っていきたい」だが、報道で簡略化された)。

首相就任後の選挙演説では「私はうそは申しません」を繰り返し、これが流行語になった。気短で短気だが、ひとたび腹を割って話せば人を引きつける親分肌だった、と回想する側近は多い。佐藤栄作・前尾繁三郎・大平正芳・宮澤喜一 — 後の首相・有力政治家を多く輩出した「宏池会」を結成し、戦後保守政治の一大潮流を作った。

病に倒れて — 東京オリンピック直後の退陣

昭和39年(1964年)10月10日、東京オリンピック開会式に首相として出席。その直後の10月25日、喉頭がんを公表して退陣を表明した。後継には佐藤栄作を指名。翌昭和40年(1965年)8月13日、東京・国立がんセンターで死去。享年65。

戦後日本の経済成長を制度的に方向づけ、それを 自らの体力と引き換えに走り抜けた首相であった。

系譜と宏池会

池田が結成した宏池会は、大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一・宏池会系の岸田文雄まで、戦後自民党の主流派の一角を形成し続けてきた。経済通・官僚出身・ハト派という宏池会の性格は、すべて池田の人格と政策路線に源流を持つ。

同じ青山霊園には、宏池会の系譜に連なる宮澤喜一(1種ロ17号12)も眠る。

逸話・エピソード

「ニコヨン」と渾名された大蔵官僚

戦前の税務監督局長時代、池田は部下や納税者にも腰が低く、笑顔を絶やさなかったことから「ニコヨン」(ニコニコしている四男の意とも)と呼ばれていたという。落葉状天疱瘡の闘病で死線を超えた経験が「人にやさしくあれ」という根本姿勢を作ったと、戦後の池田番記者たちは回想している。怒鳴り散らす政治家像の対極で、宰相になった後もこの柔らかさは変わらなかった。

下村治と二人三脚で組み立てた「所得倍増」

所得倍増計画の理論的設計を担ったエコノミスト下村治と池田は、官僚時代からの古い知己だった。下村が大蔵省で「日本経済はまだ伸びる」と主張していた頃、周囲は「楽観的すぎる」と冷笑していたが、池田だけは「下村の数字は信用できる」と擁護し続けた。首相就任後、池田はこの下村理論をそのまま政策に持ち込み、批判の矢面に立ちながらも「私はうそは申しません、下村もうそは申しません」と通した。二人の固い信頼関係なしに高度成長期は始まらなかった、と後年の経済史家は評価する。

「池田の前にコップなし」 — 即決即断の人

池田は判断が速いことで知られ、官邸の応接室では訪問者の話が終わる前に「分かった、それでいこう」と決めてしまうことが多かった。秘書官の伊藤昌哉は「池田の前にコップなし」と評した。長居して茶を飲む時間が無いほど即決される、の意である。蔵相時代から染みついた数字感覚と決断の速さが、高度成長期の意思決定速度を支えた。

青山霊園に眠る

池田勇人の墓は、青山霊園 1種イ1号26側にある。同じ「1種イ1号」の区画は、大久保利通(2号15側)・斎藤茂吉と同じ大区画に属し、近代日本を作った人々のすぐ近くに、戦後の高度成長を率いた宰相が眠っている。

「所得倍増」のスローガンと、東京オリンピックを見届けてから退いた首相としての姿 — 戦後日本人が記憶する池田勇人の輪郭は、この青山の墓所からそのまま近代日本の物語につながっている。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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