宮澤 喜一
みやざわ きいち
Miyazawa Kiichi
第78代内閣総理大臣。バブル崩壊後の日本経済を率いた宏池会の領袖、戦後屈指の知性派宰相。
バブル崩壊後の日本を率いた知性派宰相
宮澤喜一は、第78代内閣総理大臣を務めた、戦後日本を代表する知性派政治家である。広島県福山市の政治家一族に生まれ、東京帝国大学法学部を経て大蔵省に入省。サンフランシスコ講和会議に若手随員として参加した経歴を持ち、池田勇人の秘書官・側近を経て政界入りした。
1991年から1993年まで首相を務めた在任中は、バブル崩壊直後の経済対策、PKO法案に基づく自衛隊カンボジア派遣、天皇訪中、コメ市場の部分開放など、戦後日本の節目となる難題を次々とこなした。一方で 1993年6月の宮澤内閣不信任案可決により、戦後初めて自民党が下野する政権交代を体験する首相ともなった。 後年は森内閣・小泉内閣の蔵相・財務相として再登板し、2003年に政界を引退。2007年、87歳で死去するまで「最後の昭和の宰相」と呼ばれた。
大蔵省から池田の側近へ
大正8年(1919年)、東京市で誕生。父・宮澤裕は衆議院議員、母方の祖父・小川平吉は鉄道大臣を務めた政治家一族の出身である。府立一中・第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業、昭和17年(1942年)に大蔵省に入省した。
戦後の昭和21年(1946年)、池田勇人主税局長の秘書となり、サンフランシスコ講和会議(1951年)では吉田茂全権の随員として参加。流暢な英語と国際感覚を武器に、若くして戦後外交の現場に立ち会った経験は、後に宏池会の知性派路線を象徴するものとなる。
池田・大平・鈴木 — 宏池会四代を貫く
昭和28年(1953年)、参議院議員に初当選。以後、衆議院に転じ、池田・佐藤・三木・大平・鈴木・中曽根・竹下・宇野・海部 — 戦後の歴代内閣で、経済企画庁長官、通産相、外相、官房長官、蔵相など主要閣僚を歴任した。宏池会領袖として、池田勇人→大平正芳→鈴木善幸の系譜を継ぎ、戦後保守政治の主流派の一翼を担い続けた。
平成3年(1991年)11月5日、第78代内閣総理大臣に就任。72歳の高齢就任で、戦後3人目の最高齢首相となった。
バブル崩壊・PKO・コメ市場開放
宮澤内閣の在任は1年7か月。短いがそこに詰まった出来事は重い:
- バブル崩壊後の景気対策(総合経済対策、公定歩合の段階的引き下げ)
- PKO協力法成立とカンボジア派遣(1992年)
- 天皇訪中(1992年、戦後初)
- 米国クリントン政権との通商摩擦
- ガット・ウルグアイラウンドでのコメ市場部分開放の事実上の決断
平成5年(1993年)6月18日、政治改革法案を巡る党内対立から内閣不信任案が可決。衆議院解散・総選挙の結果、自民党は過半数を失い、細川連立政権が誕生。戦後38年続いた自民党単独政権が終わった瞬間に、首相の座にあったのが宮澤である。
「最後の昭和の宰相」 — 再登板と引退
退陣後も宮澤は政界に残り、平成10年(1998年)から平成13年(2001年)まで、小渕・森・小泉内閣で大蔵大臣・財務大臣を再び務めた。元首相の閣僚再登板は戦後初めて。アジア通貨危機後の不良債権処理、ITバブル後の財政運営を担当した。
平成15年(2003年)、衆議院議員引退。在職50年。父・宮澤裕、弟・宮澤弘(参議院議員・元法相)、甥・宮澤洋一(参議院議員)と続く宮澤家の政治系譜の中心に立ち続けた人物だった。
平成19年(2007年)6月28日、東京・神田駿河台の自宅で死去。享年87。葬儀は青山葬儀所で営まれた。
逸話・エピソード
流暢な英語で米国議員を論破 — 「Mr. Miyazawa」の異名
宮澤の英語力は戦後日本の政治家としては図抜けた水準で、通訳を介さずワシントンの上院議員と渡り合えた数少ない日本人だった。1980 年代の日米通商摩擦交渉では、米議会公聴会で宮澤がジョークも含めて応答する姿が現地メディアで「Mr. Miyazawa」として親しまれた。一方、英語が得意すぎることが党内では「鼻にかける」「人を見下している」と反発を呼び、田中角栄らの「叩き上げ派」からは終生敬遠された。知性派の長所と短所が、語学力という一点に集約された政治家でもあった。
サンフランシスコ講和会議の若手随員 — 32 歳で吉田茂の傍に
昭和 26 年(1951 年)9 月、サンフランシスコ講和会議に吉田茂全権の随員として参加したとき、宮澤は 32 歳の大蔵省役人だった。会議場のオペラハウス、調印式の卓上、ホテルでの吉田の口述筆記 — 戦後日本の主権回復の現場に最年少クラスで立ち会った経験は、その後の宮澤を「戦後外交を直接知る最後の現役政治家」として終生位置づけた。後年、宮澤は「あの時、吉田さんの隣でメモを取っていた青年が、まさか後に総理になるとは思わなかった」と語っている。
自宅は本に埋もれていた — 知性派の私生活
宮澤は読書家として知られ、東京・神田駿河台の自宅は廊下にまで本が積まれ、書斎では床が見えないと家族が証言している。専門書から英語の小説、経済誌まで分け隔てなく読み、特にビクトリア朝英国史を好んだ。蔵書は死後も整理されないまま家族の手元に残されたという。「政治家というより学者の佇まい」と評された人物像の根幹に、この本に埋もれた書斎があった。
青山霊園に眠る
宮澤喜一の墓は、青山霊園 1種ロ17号12にある。同じ「1種ロ17号」の区画には、宮澤の宏池会の源流である松方正義(1号側)も眠っている。
戦後保守政治の本流を、池田勇人(1種イ1号26側)から受け継ぎ、平成にまで運んだ宰相が、 池田と同じ青山霊園に眠っている。「最後の昭和の宰相」と呼ばれた知性派政治家の輪郭は、この場所で戦後日本の政治史と静かに重なっている。


