浜口 雄幸
はまぐち おさち
Hamaguchi Osachi
第27代内閣総理大臣。「ライオン宰相」と呼ばれた立憲民政党総裁。東京駅で狙撃され翌年死去した。
「男子の本懐」と言って倒れた首相
浜口雄幸は、第 27 代内閣総理大臣。立憲民政党の初代総裁にして、重厚な風貌と豊かな口髭から「ライオン宰相」と呼ばれた、昭和初期政党政治の象徴的政治家である。
彼が首相として手掛けた仕事は、いずれも国家の進路を大きく左右するものだった。井上準之助蔵相と組んだ金解禁(1930 年 1 月)による財政の引き締め、ロンドン海軍軍縮条約(1930 年)による海軍補助艦の制限 — 短期的には激しい批判を浴びながら、長期的に「軍縮で経済を立て直す」という戦間期日本のあり得たもう一つの未来を体現した政策である。後者は海軍軍令部・右翼から「統帥権干犯」と猛攻撃を受け、これが軍部独走の口実となっていく。
そして昭和 5 年(1930 年)11 月 14 日、浜口は東京駅丸の内南口頭で右翼青年・佐郷屋留雄に拳銃で狙撃された。倒れる際に発したとされる「男子の本懐」の一言は、政治家の覚悟を示す名言として今も語り継がれる。重傷を負いながら翌年 1 月にいったん登院、4 月に首相を辞任。同年 8 月 26 日に死去した。享年 61。
彼の死は、戦前日本の政党政治が暴力に屈する転換点を象徴する出来事として、井上準之助暗殺(1932 年 2 月)・犬養毅暗殺(同 5 月)へと連なるテロの連鎖の起点に位置づけられている。
高知の養子から大蔵省へ
明治 3 年(1870 年)、土佐国長岡郡五台山村(現・高知市)の水口家の三男として生まれ、隣家の浜口家に養子に入った。東京帝国大学法科を首席に近い成績で卒業し、大蔵省に入省。専売局長官・逓信次官・大蔵次官と階段を上がり、官僚として磨いた財政の知識を、後に政党政治家として武器にする。
政治家としてのスタイルは派手さを欠き、雄弁でもなかったが、原則を曲げない硬骨さで知られた。立憲同志会・憲政会・立憲民政党と渡り歩く中で、加藤高明内閣・第一次若槻禮次郎内閣で蔵相・内相を歴任。昭和 2 年(1927 年)、立憲民政党の初代総裁に就任した。
ロンドン軍縮と「統帥権干犯」
昭和 4 年(1929 年)7 月、田中義一内閣総辞職を受けて第 27 代総理大臣に就任。浜口がただちに着手したのが、井上準之助蔵相とともに進めた金解禁(旧平価による金本位制復帰、1930 年 1 月)である。物価引下げ・産業合理化・国際競争力強化を通じて日本経済を世界経済に再接続する構想だったが、折からの世界恐慌(1929 年米国発)と重なり、昭和恐慌を招いた。
そして同年 4 月、ロンドン海軍軍縮条約に調印。米英日の補助艦保有比率を 10:10:6.97 とする内容で、海軍軍令部はこれを「統帥権干犯」と糾弾した。憲法上、軍の編成権(統帥権)は内閣ではなく天皇の直属にあるという論理で、内閣が独断で軍の規模を決めるのは越権だ、という攻撃である。この「統帥権干犯問題」は、以後あらゆる軍部抗命の理論的根拠となり、戦前日本の歯止めを外す決定的な扉となった。
東京駅、11 月 14 日朝
昭和 5 年(1930 年)11 月 14 日午前 9 時前、岡山県下での陸軍特別大演習に向かうため、浜口は東京駅丸の内南口の改札を抜けた。プラットフォームへ向かう途中、右翼団体・愛国社の青年、佐郷屋留雄(当時 23 歳)が拳銃を発射。弾は浜口の腹部を貫通した。
倒れた浜口は、その場で「男子の本懐」と漏らしたとされる。重傷を負いながらも翌昭和 6 年(1931 年)1 月、痛々しい姿で議会に出席し、政府提出の予算案を可決させた。しかし傷の悪化により 4 月に首相を辞任、同年 8 月 26 日に死去。享年 61。
東京駅丸の内南口の床には、現在も狙撃地点を示すささやかな印が残されている。観光客の足元、誰も気づかない場所に、政党政治が銃声に屈し始めた朝の記憶が埋め込まれている。
血族の著名人
浜口家は戦後の金融界・実業界に多数の人材を送り出した。
- 長男・濱口 雄彦 — 銀行家。日本銀行を経て東京銀行(現・三菱UFJ銀行)初代頭取、全国銀行協会会長、KDD(現・KDDI)社長・会長
- 二男・濱口 巌根 — 銀行家。日本勧業銀行副頭取、日本長期信用銀行会長
- 五女・富士の夫・大橋 武夫 — 内務官僚・政治家。労働大臣などを歴任
- 孫(五女・富士の次男)・大橋 光夫 — 昭和電工社長・会長
逸話・エピソード
「ライオン宰相」の由来
「ライオン宰相」という渾名は、たてがみのような豊かな口髭と、重厚な顔立ち、そして無骨な雄弁さから自然と生まれたものとされる。新聞各紙が浜口の風貌を漫画化する際に必ずライオン顔として描き、本人も憎からず思っていたという。原則を曲げない硬骨さがこの異名にぴったり重なり、世論は浜口を「強い指導者」として歓迎した。狙撃された後、病床から復帰して議会に立った姿は、まさに傷ついたライオンの威厳を漂わせていたと当時の記者が書き残している。
「男子の本懐」 — 倒れた瞬間の一言
昭和 5 年 11 月 14 日朝、東京駅丸の内南口で銃撃を受けた直後、駆け寄った付き人と警官に対し、浜口は床に倒れたまま「男子の本懐」と漏らしたと伝わる。意識朦朧の中、苦痛より先に出てきたのが「政治家として撃たれることは本望」という政治家の覚悟の言葉だった。この一言は新聞各紙が一斉に報じ、戦前日本における政治家の覚悟の典型として後世まで語り継がれる名言となった。井上準之助・犬養毅と続くテロの連鎖の中で、最初に銃弾に倒れた首相の最後の矜持である。
病床から議会へ — 痛ましい登院
狙撃から約 2 か月後の昭和 6 年 1 月、浜口は痛みをこらえながら議会に出席した。歩行もままならず、議場の入口から議席まで数十メートルを介添えを受けて進む姿は、傍聴席を満たした記者たちを息を呑ませた。野党・立憲政友会の議員たちすら一斉に起立して敬意を示したと伝わる。浜口は震える声で予算案の趣旨説明を行い、可決まで持ち込んだ。だが傷の悪化により 4 月に辞任、8 月に死去。政党政治の最後の矜持を、自らの肉体で示した登院だった。
青山霊園に眠る
浜口雄幸の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側。同じ「1種ロ8号」の区画には、共に金解禁を断行し血盟団事件で暗殺された井上準之助、五・一五事件で射殺された犬養毅、加藤高明、牧野伸顕といった大正・昭和初期の政党政治家が並ぶ。政党内閣制が頂点を迎え、テロによって崩れていく約 10 年間の歴史を、この一画の墓石群が無言で語っている。





