井上 準之助

いのうえ じゅんのすけ(Inoue Junnosuke)

井上 準之助の肖像
井上 準之助の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1869-05-06 〜 1932-02-09
時代大正・昭和
分野政治家
墓所区画1種ロ8号1・14側
タグ大蔵大臣 / 日本銀行総裁 / 金解禁 / 血盟団事件

金解禁を断行した「井上財政」の男

井上準之助は、日本銀行第 10 代・第 13 代総裁を 2 度務め、浜口雄幸内閣・第二次若槻禮次郎内閣の大蔵大臣として金解禁(1930 年 1 月)を断行した、戦前期日本を代表する財政家である。

経済理論の合理性を最も忠実に政策化した政治家として、井上の名は教科書に必ず登場する。金解禁とは、第一次大戦中に各国が停止していた金本位制への復帰を意味する。当時の日本は通貨価値を旧平価(円高水準)に戻すという厳しい選択を取り、緊縮財政・産業合理化と組み合わせて国際競争力を取り戻そうとした。理論的には正しかった。だが折からの世界恐慌(1929 年米国発)と重なり、デフレと農村疲弊と失業を一気に深刻化させ、「昭和恐慌」を招いた。経済政策が現実の歴史に翻弄された最も鮮烈な事例の一つである。

そして昭和 7 年(1932 年)2 月 9 日、井上は東京・本郷の駒本小学校に向かう途中、日蓮宗系右翼・血盟団の小沼正に銃撃され、その場で死亡した。享年 62。続いて 3 月に三井合名理事長・団琢磨も暗殺(血盟団事件)、5 月には犬養毅首相が射殺(五・一五事件)され、戦前日本の政党政治・財界が暴力で次々と崩されていく連鎖の、最初の犠牲者となった。

日田の酒造家から日銀総裁へ

明治 2 年(1869 年)、大分県日田郡大鶴村(現・日田市)の酒造業を営む井上家の五男として生まれる。第三高等学校を経て東京帝国大学法科を卒業、明治 29 年(1896 年)に日本銀行に入行した。

横浜正金銀行頭取を経て、大正 2 年(1913 年)、44 歳の若さで日本銀行第 10 代総裁に就任。日銀総裁としては異例の若さで、第一次大戦期の大戦景気・大正バブル・関東大震災後の金融パニックという激動の金融史を、ほぼ二代にわたって取り仕切った。「金本位制への復帰こそ日本経済の規律を回復する道だ」 — その信念は、日銀での実務経験と、ロンドンの国際金融体制への深い理解に裏打ちされていた。

金解禁 — 正しすぎた政策

昭和 4 年(1929 年)7 月、浜口雄幸内閣が成立。井上は大蔵大臣として入閣した。彼が浜口とともに進めたのが、旧平価による金解禁である。1930 年 1 月 11 日、井上はついに金輸出禁止を解除した。同時期に進めた緊縮財政・産業合理化と合わせ、「井上財政」と総称される。

しかしタイミングは最悪だった。前年 10 月のニューヨーク株式市場大暴落から、世界恐慌が本格化していた。日本経済はデフレ圧力に晒され、農村部では生糸価格暴落で娘の身売りまで生じる惨状となり、都市では失業者が激増。「資本家を富ませ農民を殺す」と井上は罵られた。

昭和 6 年(1931 年)12 月、犬養毅内閣の蔵相に就任した高橋是清は、井上が引いた轍を逆走した。金輸出を再禁止し、積極財政に舵を切った。「井上財政」は事実上否定され、井上自身は野党・立憲民政党の幹事長として浪人生活に入った。

2 月 9 日、駒本小学校の門前で

昭和 7 年(1932 年)2 月 9 日午後 6 時 50 分頃、井上は衆議院議員総選挙の応援演説のため東京・本郷の駒本小学校に向かっていた。校門前で待ち伏せた血盟団の小沼正(当時 21 歳)が、至近距離から拳銃を発射。井上は腹部・胸部に銃弾を受け、その場で死亡した。享年 62。

血盟団は「一人一殺」を掲げた右翼テロ組織で、政財界の指導者を順に殺害する計画を持っていた。井上の暗殺は、その第一弾だった。続いて 3 月 5 日に三井合名理事長・団琢磨が日本橋・三井本館前で射殺、5 月 15 日には現職首相・犬養毅が首相官邸で殺害された。「テロが政策を覆せる」という経験が、戦前日本の政党政治・財界の終わりを準備した。

青山霊園に眠る

井上準之助の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側。同じ「1種ロ8号」の区画には、共に金解禁を進めた浜口雄幸首相、五・一五事件で射殺された犬養毅、加藤高明、牧野伸顕など、大正・昭和初期の政党政治家たちが並ぶ。

5 人がほぼ同じ区画に眠っているという事実そのものが、彼らが生きて作ろうとした政党内閣制の時代の終焉を、青山霊園という場所に刻印している。

墓所の位置

同じ区画(1種ロ8号)の偉人

参考資料

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