井上 準之助
いのうえ じゅんのすけ
Inoue Junnosuke
浜口・若槻内閣の蔵相として金解禁を断行した日本銀行総裁経験者。血盟団事件で暗殺された大分日田出身の財政家。
金解禁を断行した「井上財政」の男
井上準之助は、日本銀行第 10 代・第 13 代総裁を 2 度務め、浜口雄幸内閣・第二次若槻禮次郎内閣の大蔵大臣として金解禁(1930 年 1 月)を断行した、戦前期日本を代表する財政家である。
経済理論の合理性を最も忠実に政策化した政治家として、井上の名は教科書に必ず登場する。金解禁とは、第一次大戦中に各国が停止していた金本位制への復帰を意味する。当時の日本は通貨価値を旧平価(円高水準)に戻すという厳しい選択を取り、緊縮財政・産業合理化と組み合わせて国際競争力を取り戻そうとした。理論的には正しかった。だが折からの世界恐慌(1929 年米国発)と重なり、デフレと農村疲弊と失業を一気に深刻化させ、「昭和恐慌」を招いた。経済政策が現実の歴史に翻弄された最も鮮烈な事例の一つである。
そして昭和 7 年(1932 年)2 月 9 日、井上は東京・本郷の駒本小学校に向かう途中、日蓮宗系右翼・血盟団の小沼正に銃撃され、その場で死亡した。享年 62。続いて 3 月に三井合名理事長・団琢磨も暗殺(血盟団事件)、5 月には犬養毅首相が射殺(五・一五事件)され、戦前日本の政党政治・財界が暴力で次々と崩されていく連鎖の、最初の犠牲者となった。
日田の酒造家から日銀総裁へ
明治 2 年(1869 年)、大分県日田郡大鶴村(現・日田市)の酒造業を営む井上家の五男として生まれる。第三高等学校を経て東京帝国大学法科を卒業、明治 29 年(1896 年)に日本銀行に入行した。
横浜正金銀行頭取を経て、大正 2 年(1913 年)、44 歳の若さで日本銀行第 10 代総裁に就任。日銀総裁としては異例の若さで、第一次大戦期の大戦景気・大正バブル・関東大震災後の金融パニックという激動の金融史を、ほぼ二代にわたって取り仕切った。「金本位制への復帰こそ日本経済の規律を回復する道だ」 — その信念は、日銀での実務経験と、ロンドンの国際金融体制への深い理解に裏打ちされていた。
金解禁 — 正しすぎた政策
昭和 4 年(1929 年)7 月、浜口雄幸内閣が成立。井上は大蔵大臣として入閣した。彼が浜口とともに進めたのが、旧平価による金解禁である。1930 年 1 月 11 日、井上はついに金輸出禁止を解除した。同時期に進めた緊縮財政・産業合理化と合わせ、「井上財政」と総称される。
しかしタイミングは最悪だった。前年 10 月のニューヨーク株式市場大暴落から、世界恐慌が本格化していた。日本経済はデフレ圧力に晒され、農村部では生糸価格暴落で娘の身売りまで生じる惨状となり、都市では失業者が激増。「資本家を富ませ農民を殺す」と井上は罵られた。
昭和 6 年(1931 年)12 月、犬養毅内閣の蔵相に就任した高橋是清は、井上が引いた轍を逆走した。金輸出を再禁止し、積極財政に舵を切った。「井上財政」は事実上否定され、井上自身は野党・立憲民政党の幹事長として浪人生活に入った。
2 月 9 日、駒本小学校の門前で
昭和 7 年(1932 年)2 月 9 日午後 6 時 50 分頃、井上は衆議院議員総選挙の応援演説のため東京・本郷の駒本小学校に向かっていた。校門前で待ち伏せた血盟団の小沼正(当時 21 歳)が、至近距離から拳銃を発射。井上は腹部・胸部に銃弾を受け、その場で死亡した。享年 62。
血盟団は「一人一殺」を掲げた右翼テロ組織で、政財界の指導者を順に殺害する計画を持っていた。井上の暗殺は、その第一弾だった。続いて 3 月 5 日に三井合名理事長・団琢磨が日本橋・三井本館前で射殺、5 月 15 日には現職首相・犬養毅が首相官邸で殺害された。「テロが政策を覆せる」という経験が、戦前日本の政党政治・財界の終わりを準備した。
血族の著名人
井上家は戦後日本の金融界・国際機関で活動した一族である。
- 妻・チヨ — 毛利重輔男爵の長女
- 長男・井上 四郎 — 経済学者、アジア開発銀行初代総裁(1966-1971 年)。戦後アジアの開発金融を主導
- 二男・井上 五郎 — 妻は木戸幸一(内大臣)の三女・和子。妻は元宮内庁侍従職女官長
- 娘婿・三宅 重光 — 日本銀行理事、東海銀行頭取・会長、東海旅客鉄道(JR 東海)会長
逸話・エピソード
ゴルフを愛した日銀総裁
井上は明治末から大正にかけての日本に本格的なゴルフ文化を持ち込んだ財界人の一人だった。横浜・程ヶ谷カントリー倶楽部の常連で、休日には朝早くから西洋人らと回り、政財界の会合よりもゴルフ場での議論を好んだという。「ゴルフは紳士のスポーツ、政治もまた紳士のものでなくてはならぬ」と語ったとされ、副葬品に愛用クラブ一式が収められたのは、彼の人生にゴルフが占めた重みを示している。
「井上は冷たい男だ」 — 信念のためにあえて演じた敵役
金解禁による緊縮財政の最中、農村疲弊の陳情に来た代議士たちを井上は門前払いに近い形で追い返したと伝わる。「井上は冷たい男だ」と新聞は書き立てたが、後の側近回想によれば、彼自身は陳情書に深夜まで目を通しながら涙を流していたという。「経済政策の正しさは情に流されて折れたら終わる」という信念が、彼を世間から見たら冷酷に見える政治家として立たせた。
駒本小学校の門前 — 「私は議員だ」
凶弾を受ける直前、応援演説会場の駒本小学校門前で待ち伏せていた小沼正に対し、井上は秘書から「危険です」と告げられても歩みを止めず、「私は選挙応援に来た議員だ、何を恐れる」と応じたと、現場にいた随行員の証言が残る。テロを目前にしても演説の予定を変えなかった姿勢は、政党政治家の矜持を体現した最期の場面として語り継がれている。
青山霊園に眠る
井上準之助の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側。同じ「1種ロ8号」の区画には、共に金解禁を進めた浜口雄幸首相、五・一五事件で射殺された犬養毅、加藤高明、牧野伸顕など、大正・昭和初期の政党政治家たちが並ぶ。とくに盟友・浜口雄幸の墓がすぐ隣にあり、東京駅で狙撃された浜口・血盟団に射殺された井上の二人が、死んでなお隣り合って眠る配置になっている。
井上は土葬で葬られた。棺には白楽天の詩集、端渓の硯、そして愛用のゴルフ道具一式が納められたと伝わる。日本に本格的なゴルフ文化を持ち込んだ世代の財政家らしい副葬品である。
5 人がほぼ同じ区画に眠っているという事実そのものが、彼らが生きて作ろうとした政党内閣制の時代の終焉を、青山霊園という場所に刻印している。




