犬養 毅
いぬかい つよし
Inukai Tsuyoshi
第29代内閣総理大臣。立憲政友会総裁。五・一五事件で首相官邸にて凶弾に倒れた憲政の闘士。
「話せばわかる」と言って撃たれた首相
犬養毅は、第 29 代内閣総理大臣。立憲政友会総裁にして、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれた、戦前日本議会政治の象徴的存在である。
明治 23 年(1890 年)の第 1 回衆議院議員総選挙から五・一五事件まで、連続 18 回当選という前例のない記録を持つ。明治・大正・昭和の三時代にわたって帝国議会の議席に座り続け、第一次護憲運動(1912-1913 年)で桂太郎内閣を倒し、第二次護憲運動(1924 年)で清浦奎吾内閣を倒すなど、政党政治の節目に必ず先頭に立った人物だった。
そして昭和 7 年(1932 年)5 月 15 日、海軍青年将校らに首相官邸を襲撃され、銃撃を受けて死去。享年 76。襲撃直前、犬養が将校らに発したとされる「話せばわかる」、そして将校らが応えたとされる「問答無用」のやりとりは、戦前日本の議会政治が暴力に屈した瞬間として教科書にも刻まれている。五・一五事件は政党内閣制の終焉を象徴する事件となり、以後の日本は軍部主導の体制へと加速していった。
岡山県の犬養木堂記念館を訪れた人なら知っているように、犬養は「木堂」の号で漢詩・書道にも親しんだ文人政治家でもあった。号は犬養が遺した数千点の書とともに、現在も愛好家の手で大切にされている。
慶應義塾、新聞記者、そして政界へ
安政 2 年(1855 年)、備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市北区川入)に庭瀬藩士の家に生まれる。明治期、福澤諭吉の慶應義塾で学び、郵便報知新聞の記者として西南戦争に従軍。記者として磨いた論争術と、慶應で受けた福澤の自立独立の思想が、犬養の政治家としての地金となった。
明治 15 年(1882 年)、大隈重信の立憲改進党結党に参加して政界入り。以後、立憲改進党 → 進歩党 → 憲政本党 → 立憲国民党 → 革新倶楽部 → 立憲政友会と、党名は変わっても常に在野・改進系の議会人として行動した。「政府に媚びない」 — それが犬養の政党人としての一貫した姿勢だった。
二度の護憲運動
大正元年(1912 年)、第三次桂太郎内閣の成立を受けて起こった第一次護憲運動。「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに、犬養と尾崎行雄が議会演説で先頭に立った。両者の演説は連夜の民衆動員を呼び、大正 2 年(1913 年)、桂内閣はわずか 53 日で総辞職に追い込まれた。この事件で犬養と尾崎は「憲政の神様」「議会政治の神様」と呼ばれるようになる。
大正 13 年(1924 年)、貴族院中心の超然内閣・清浦奎吾内閣に対する第二次護憲運動でも、犬養は革新倶楽部総裁として、加藤高明(憲政会)・高橋是清(政友会)とともに「護憲三派」を組織。総選挙に勝利し、加藤高明内閣の成立をもたらした。普通選挙法(1925 年)はこの加藤内閣で成立する。犬養の名は、男子普通選挙の実現にも結びついている。
首相に就任、そして「問答無用」
昭和 4 年(1929 年)、田中義一の死去を受けて立憲政友会総裁に就任。昭和 6 年(1931 年)12 月、満州事変下で若槻禮次郎内閣の総辞職を受けて、犬養は 76 歳で第 29 代内閣総理大臣となった。蔵相に高橋是清を起用し、ただちに金輸出再禁止を断行(井上財政の逆走)。積極財政に転じて昭和恐慌からの脱却に道筋をつけた。
しかし軍部の独走は止まらなかった。満州事変は拡大を続け、犬養が満州国独立の事後承認に難色を示すと、軍部と右翼の犬養への憎悪は急速に高まった。
昭和 7 年(1932 年)5 月 15 日午後 5 時半頃、海軍青年将校 9 名と陸軍士官候補生 4 名が首相官邸を襲撃。応接間で対峙した犬養は、銃口を向ける将校らに「話せばわかる」と語りかけ、座って話を聞く姿勢を示したと伝わる。将校らは「問答無用、撃て」と応じて発砲。犬養は腹部・頭部に銃弾を受け、翌 16 日未明に死去した。享年 76。
このやりとり自体は襲撃を生き延びた家人・関係者の証言に基づくもので、細部には諸説あるが、「対話で軍人を翻意させようとした政治家と、対話を拒否した青年将校」という構図は、戦前期日本が抱えた病巣を一文で言い当てている。
血族の著名人
犬養家は近代から戦後まで、政界と国際舞台に人材を送り続けた家系である。
- 五男・犬養 健 — 政治家・小説家。法務大臣(第三次吉田内閣)を務め、白樺派にも近い文芸活動を行った。「健」は紅葉門下の作家・尾崎紅葉が命名したとされる
- 孫娘(犬養健の娘)・緒方 貞子 — 国際政治学者、第 8 代国連難民高等弁務官(UNHCR、1991-2000 年)。冷戦後の難民問題に取り組んだ世界的政治家。「人道支援は人類の責務」という祖父・犬養毅の精神を国際舞台で体現した
- 曽孫・緒方 篤 — 神経科学者(緒方貞子の長男)
逸話・エピソード
孫文を匿った男
明治末から大正初期、辛亥革命の指導者・孫文が日本亡命中、犬養は宮崎滔天らと並んで孫文の最大の庇護者となった。東京・芝の自宅に孫文を匿い、生活費・活動費まで提供した時期があった。孫文は犬養を「兄事すべき人」と呼び、生涯敬意を絶やさなかったと伝わる。アジアの革命家・独立運動家を支援する玄洋社系の流れと、議会民主主義者・犬養との接点が、この時期の東京政界の不思議な地下水脈を形作っていた。
「木堂」の号と書の達人
犬養は号を「木堂(ぼくどう)」と称し、漢詩・書道に深く親しんだ文人政治家だった。その書は政界・財界の名士から所望が絶えず、現存する木堂書は数千点に及ぶ。「政治家の書は心の写し絵だ」と語り、激務の合間に必ず筆を取る習慣を晩年まで貫いた。郷里・岡山には孫の犬養康彦らが整備した犬養木堂記念館があり、政治家以前に書家・文人としての犬養を伝えている。
「呼んで来い、話を聞こう」 — 銃声の中で
五・一五事件当日、襲撃に気づいた家人が犬養を裏口から逃がそうとしたが、犬養は「逃げる必要はない、呼んで来い、話を聞こう」と応接間に座り直したと、当時 13 歳の孫娘・犬養道子(後の作家)の回想に残る。応接間で対峙した将校に向けた「話せばわかる」は、文字通りに「話を聞こう」とする彼の姿勢の延長線上にあった。文人政治家の流儀が、軍人の銃口の前で通用しなかった瞬間が、戦前政党政治の終焉を象徴する場面となった。
青山霊園に眠る
犬養毅の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側。葬儀は 5 月 19 日、首相官邸の大ホールでしめやかに執り行われた — 自身が射殺されたまさにその場所で、国家から送られた。郷里・岡山市北区川入にも墓所がある。
同じ「1種ロ8号」の区画には、加藤高明、浜口雄幸、井上準之助、牧野伸顕など、大正末から昭和初期の政党政治家たちが集まる。共に普通選挙制・政党内閣制を作り上げ、そしてテロと軍部の台頭でその時代を奪われていった人々である。
郷里・岡山市には犬養木堂記念館があり、政治家・書家・文人としての犬養の足跡を伝えている。




