牧野 伸顕

まきの のぶあき(Makino Nobuaki)

牧野 伸顕の肖像
牧野 伸顕の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1861-11-24 〜 1949-01-25
時代大正・昭和
分野政治家
墓所区画1種ロ8号1・14側
タグ内大臣 / パリ講和会議 / 大久保利通の次男 / 吉田茂の岳父

大久保利通の息子、吉田茂の岳父

牧野伸顕は、大久保利通の次男にして、戦後首相・吉田茂の岳父。明治の元勲の息子として生まれ、文部大臣・農商務大臣・外務大臣を歴任した後、パリ講和会議(1919 年)の次席全権、内大臣(1925-1935 年)として昭和天皇の最側近 — つまり明治から戦中期に至る日本政治の中枢に、約半世紀にわたって座り続けた人物である。

パリ講和会議で牧野は、日本が国際連盟規約に人種的差別撤廃提案を盛り込ませようとした、その提出者の一人だった。提案は最終的に米英の反対で却下されたが、これは 20 世紀初頭の世界で、非白人国家が人種平等を国際的な制度として要求した最初の試みである。歴史的意義は今もアジア・アフリカ諸国で再評価されている。

そして内大臣・宮中重臣として、牧野は元老・西園寺公望と連携した「リベラル派宮中グループ」の中心となり、軍部の暴走に歯止めをかけようとした。1936 年 2 月 26 日の二・二六事件では暗殺対象に指定され、湯河原・光風荘で襲撃を受けたが、孫娘・麻生和子(後の麻生太郎の母)の機転で裏山に逃れて九死に一生を得た。長女・雪子の夫が吉田茂で、戦後日本の自由主義政治家を孫世代に繋いだ役割は、戦後民主主義の系譜にも繋がっている。

父・大久保利通と同じ青山霊園に(別区画で)眠るという事実そのものが、明治から昭和まで貫いて日本政治の中枢を担ったこの一家の存在感を物語っている。

大久保利通の次男として

文久元年(1861 年)、薩摩国鹿児島城下に大久保利通の次男として生まれる。3 歳のとき母方の親戚・牧野家の養子となった。10 歳から 14 歳までの少年期、岩倉使節団に父・利通とともに随行し、米国・フィラデルフィアの学校に通った。世界を見て育った世代の代表である。

帰国後、東京開成学校・東京大学法学部に進学。中退して外務省に入り、在英・在伊・在墺の各日本公使館に勤務。父・大久保が紀尾井坂で暗殺されたのは、牧野が留学先・米国にいた 17 歳の時(明治 11 年/1878 年)だった。

文部大臣として「戊申詔書」を起草

明治 25 年(1892 年)に第一次松方内閣の福井県知事、続いて茨城県知事を歴任。明治 39 年(1906 年)、第一次西園寺公望内閣の文部大臣に就任した。

文相時代に関わった大きな仕事の一つが、戊申詔書(1908 年)の起草である。日露戦争後の社会的緩み・物欲蔓延を引き締めるため、勤労・倹約・国家への忠誠を呼びかけた天皇詔書で、明治末期から大正・昭和を通じて国民精神運動の根拠文書として用いられ続けた。

その後、第二次西園寺内閣で農商務大臣、大正 2 年(1913 年)山本権兵衛内閣の外務大臣に就任。日露関係・対中関係の調整を担当した。

パリ講和会議 — 人種的差別撤廃提案

大正 8 年(1919 年)1 月、第一次世界大戦の戦後処理を協議するパリ講和会議が開かれた。日本側全権は元老・西園寺公望、次席全権が牧野伸顕。西園寺が高齢で実務に動けない中、実質的な日本代表として交渉を仕切ったのは牧野である。

会議で日本が掲げた要求は二つあった。第一に山東半島の旧ドイツ権益継承(これは認められた)。第二に国際連盟規約への人種的差別撤廃条項の挿入(これは却下された)。第二の提案は、当時アメリカ・カナダ・オーストラリアで吹き荒れていた日本人排斥への日本政府の応答だったが、ウィルソン米大統領が議事規則を変えてまで葬り去った。20 世紀の世界に深い禍根を残す決定だった。

内大臣 — 軍部との攻防

帰国後、牧野は宮中入りし、宮内大臣(1921-1925 年)、続いて内大臣(1925-1935 年)を歴任した。内大臣は天皇の側近として常時御前に侍り、首相奏薦の場で重きをなす最重要ポストである。

牧野は元老・西園寺公望と密接に連携し、軍部の独走を抑制する立場を取り続けた。これが軍部・右翼の側からは「リベラル派宮中重臣」「天皇の側近にひそむ国賊」と見なされ、テロの標的となっていく。

二・二六事件 — 湯河原の旅館で

昭和 11 年(1936 年)2 月 26 日未明、東京で陸軍青年将校らによる二・二六事件が勃発。斎藤実・高橋是清・渡辺錠太郎ら主要重臣・閣僚が次々と襲撃され殺害される中、当時 75 歳の牧野は静養先の湯河原の旅館「光風荘」に滞在していた。

午前 5 時頃、襲撃部隊が光風荘に到達。同行していた孫娘・麻生和子(当時 24 歳、後の麻生太郎の母)らが機転を利かせ、牧野を裏山に逃した。襲撃班の銃撃と火災の中、牧野は山道を逃れて九死に一生を得た。

事件後の昭和 10 年(1935 年)末にはすでに内大臣を辞任していたが、その後も吉田茂(長女・雪子の夫)を通じて、戦中・戦後の日本政治に間接的に関与し続けた。「重臣ブロック」と呼ばれる和平派グループの中核として、戦争終結への動きを陰で支えた。

戦後の長寿と最期

昭和 24 年(1949 年)1 月 25 日、東京で死去。享年 87。明治・大正・昭和の三時代、紀尾井坂(父の死)から二・二六事件(自身が標的)、そして戦後民主主義(娘婿の首相就任)までを生き延びた、近代日本政治の生き証人だった。

青山霊園に眠る

牧野伸顕の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側。同じ「1種ロ8号」の区画には、政党政治の同志である加藤高明・浜口雄幸・井上準之助・犬養毅らが眠る。父・大久保利通も同じ青山霊園内(1種イ2号15側)に眠る。

紀尾井坂で父を失い、二・二六事件で自らも標的となり、それでも長寿を全うして戦後を迎えた牧野の生涯は、明治国家の創建から戦後民主主義の出発までを一人で繋ぐ稀有な軌跡だった。

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参考資料

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