橋本 龍太郎
はしもと りゅうたろう
Hashimoto Ryutaro
第82・83代内閣総理大臣。橋本行革と消費税 5% 引き上げ、普天間返還合意を実現した平成自民党の領袖。
「ポマードと弁論」 — 平成自民党を背負った宰相
橋本龍太郎は、第 82 代・第 83 代内閣総理大臣(1996 年 1 月 - 1998 年 7 月)を務めた自由民主党の領袖である。父・橋本龍伍も厚生大臣・文部大臣を歴任した政治家、弟・橋本大二郎は元高知県知事という、戦後屈指の政治家一族の長男。
「政治改革」と「行政改革」が平成日本最大のテーマだった時代に、橋本は 橋本行革(中央省庁再編)・消費税 5% 引き上げ・金融ビッグバン・普天間返還合意 という、後の日本の制度設計に直結する重い決断を集中して下した宰相であった。
整えたポマードと、官僚顔負けの細部までの政策議論。「政策通の政治家」「外交の橋本」と呼ばれた一方で、「妥協を許さない頑固さ」も併せ持ち、政界では好悪が極端に分かれる人物だった。
父の死と最年少代議士
昭和 12 年(1937 年)7 月 29 日、東京・渋谷で生まれる。父・橋本 龍伍 は当時大蔵省官僚、後に第 2 次・第 3 次吉田内閣の官房長官・厚相・文相を歴任した代議士。母方は岡山県の医家。
麻布中学・麻布高校から慶應義塾大学法学部政治学科に進学。剣道部に所属し、後年は範士七段まで上り詰める腕前となる。在学中の昭和 37 年(1962 年)、父・龍伍が現職代議士のまま 56 歳で急逝。慶大卒業の翌年、橋本は父の地盤を引き継ぎ、昭和 38 年(1963 年)の総選挙で 26 歳の最年少当選を果たした。
以後、岡山 2 区で連続 14 回当選。佐藤派・田中派・竹下派・小渕派(平成研究会)と一貫して経世会系の本流を歩んだ。
厚相・蔵相・通産相 — 政策官僚を率いた重量級
派閥領袖となる以前から、橋本は 「政策通」として頭角を現した。
- 昭和 53 年(1978 年): 第 1 次大平内閣の厚生大臣として初入閣(41 歳)。健康保険法改正
- 昭和 61 年(1986 年): 中曽根内閣の運輸大臣として 国鉄分割・民営化を断行
- 平成 元年(1989 年): 自民党幹事長
- 平成 元年(1989 年)8 月: 宇野内閣の大蔵大臣として 消費税導入後の市場対応を担当
- 平成 6 年(1994 年): 村山内閣の通商産業大臣として 日米自動車交渉を妥結
外国政府の主席交渉官と互角に渡り合える数少ない日本人政治家として、米国通商代表部(USTR)のミッキー・カンターは橋本を「歴代最強の交渉相手」と評した。
第 82・83 代内閣総理大臣 — 橋本行革と 1997 年
平成 7 年(1995 年)9 月、自民党総裁選で河野洋平を破り総裁就任。村山富市首相の退陣を受け、平成 8 年(1996 年)1 月 11 日に 第 82 代内閣総理大臣に就任した。
橋本内閣の中心テーマは「6 大改革」 — 行政・財政・社会保障・経済構造・金融・教育の同時改革である。
- 平成 8 年 4 月: クリントン大統領との日米首脳会談で 普天間飛行場の全面返還に合意(後の沖縄の負担軽減交渉の出発点)
- 平成 8 年 11 月: 「日本版ビッグバン」 — 金融制度改革を打ち出す
- 平成 9 年(1997 年)4 月: 消費税を 3% → 5% に引き上げ
- 平成 11 年(1999 年)1 月施行の 中央省庁再編法(後の橋本行革)を成立
しかし平成 9 年秋、アジア通貨危機が日本を直撃。山一證券・北海道拓殖銀行が相次いで破綻。消費増税後の景気急減速も重なり、平成 10 年(1998 年)7 月の参議院選挙で自民党は歴史的惨敗を喫した。橋本は責任を取って退陣する。
退任後 — 派閥領袖として、そして突然の死
退任後も自民党最大派閥・平成研究会(橋本派)を率い、平成 13 年(2001 年)には小泉純一郎との 「橋本・小泉の総裁選決戦」に敗れたが、なお自民党内で隠然たる影響力を保った。
平成 16 年(2004 年)、日本歯科医師連盟からの献金問題(日歯連事件)で衆院議員を辞職。事実上の引退となった。
平成 18 年(2006 年)6 月、腸閉塞のため東京・虎の門病院に入院。手術後の経過は思わしくなく、7 月 1 日午後 1 時 41 分、敗血症性ショックのため死去。享年 68。前年に死去した竹下登に続き、平成研究会(経世会)系の領袖が相次いで他界した夏となった。
親族の著名人
橋本家・大久保家は戦後屈指の政官界の一族である。
- 父・橋本 龍伍 — 衆議院議員、厚生大臣・文部大臣
- 弟・橋本 大二郎 — 元 NHK 記者、元高知県知事(4 期)
- 長男・橋本 岳 — 衆議院議員(自民党)、元厚生労働副大臣
- 妻・久美子 — 元自民党代議士・大久保武雄(運輸大臣)の長女
逸話・エピソード
剣道範士七段 — 「気合いの政治家」
橋本は慶大剣道部で鍛えた腕前を生涯磨き続け、最終的に剣道範士七段に到達した。総理在任中も時間を見つけては剣道着に着替え、永田町近辺の道場で稽古に汗を流したと伝わる。国会答弁で野党に詰め寄られる場面でも「気合いで押し切る」スタイルで知られ、官僚や記者から「腰の据わり方が違う」と評された。剣道で培った間合いと胆力が、日米通商交渉でカンターを「歴代最強の交渉相手」と言わしめた原点だったとされる。
ポマードと細部 — 政策官僚も舌を巻く知識量
整えられたポマードと細身のスーツは橋本のトレードマークだった。だが本人が誇りとしたのは外見ではなく、所管省庁の細部まで踏み込む政策議論である。厚相時代、医療保険の点数表を全部頭に入れて事務方を質問攻めにし、官僚が「大臣、そこまでご存知ですか」と絶句した挿話が残る。蔵相・通産相時代も同様で、官僚にとって「下手な答弁では一蹴される大臣」として恐れられた。橋本行革で中央省庁を再編できた素地は、こうした霞が関への精通から生まれた。
「政界一の毛並み」と父の遺影
父・橋本龍伍は厚相・文相を歴任した代議士で、橋本の地盤・看板・鞄はすべて父譲りだった。政界では「政界一の毛並み」と評されたが、本人はこの言葉を必ずしも喜ばなかったと伝わる。執務室には父の遺影を飾り、「父が達成できなかったことを自分が」という意識を最後まで持ち続けた。父・龍伍が 56 歳で急逝した年齢を超えた頃から、橋本の口数が減り、後継を意識した発言が増えたとされる。
青山霊園に眠る
橋本龍太郎の墓は、青山霊園 1種イ12号4側。同じ区画には自由民権運動家・渡辺昇(肥前大村藩出身、警視総監)が眠る。明治の元勲級と、平成の宰相が、青山霊園の同じ区画に並ぶ配置となった。
岡山県井原市の橋本家墓所にも分骨されている。

