緒方 竹虎 (1888-1956)の肖像
緒方 竹虎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

緒方 竹虎

おがた たけとら

Ogata Taketora

朝日新聞主筆・副社長、戦後は吉田茂内閣の副総理。玄洋社系で頭山満に師事、自由党総裁として保守合同に関与した昭和の政治家。自民党結成の2か月後、初代正式総裁選を控えて急逝し、首相候補と目された。

生没年
出身地
山形県米沢市
死没地
東京
時代
大正・昭和
役職
副総理・国務大臣
出身校
修猷館中学校 / 早稲田大学
所属
玄洋社 / 自由民主党
区画
1種イ5号17側
タグ
朝日新聞主筆 / 副総理 / 自由民主党 / 玄洋社 / 政界刷新

朝日新聞主筆から、自民党結成・副総理へ

緒方竹虎は、戦前は 朝日新聞主筆・副社長として日本のジャーナリズムを代表し、戦後は 第 4-5 次吉田茂内閣の副総理として 自由民主党(1955 年)結成を主導した政治家である。

玄洋社系の 頭山満(青山霊園 1種ロ8号で既登録)に若年から師事した アジア主義の系譜に属しながら、朝日新聞で言論界を率い、戦後は 保守合同を実現した稀有な経歴の持ち主であった。

昭和 31 年(1956 年)1 月 28 日、自民党総裁選を 4 月に控えた最有力候補のまま 心臓発作で急逝(享年 68)。緒方が生きていれば 石橋湛山・岸信介より先に 自民党初代総裁から首相になっていた可能性が極めて高く、戦後日本政治史の 「もし」を語るときに必ず名前が挙がる人物となった。

米沢の士族の家から、修猷館・早稲田へ

明治 21 年(1888 年)1 月 30 日、山形県米沢市に生まれる。父・緒方道平は 筑前福岡藩士で、明治維新後に米沢で警察官として勤務していた。すぐに父の本籍地・福岡に移住し、緒方は 福岡県人として育った。

修猷館中学校(福岡藩校以来の名門、玄洋社系の中核)で 頭山満の影響を受け、アジア主義・国権論の思想に親しんだ。修猷館の同期・先輩には 広田弘毅(後の首相)・中野正剛(政治家・東方会)らがいる。福岡 = 玄洋社系の政治家ネットワークの代表的人材として育った。

早稲田大学政治経済学部を明治 44 年(1911 年)卒業。在学中から 大隈重信(早稲田創設者)・頭山満の人脈に近づき、新聞記者を志した。

朝日新聞 — 主筆・副社長

明治 44 年(1911 年)、東京朝日新聞(後の朝日新聞)入社。政治記者として頭角を現し、昭和 11 年(1936 年)、朝日新聞主筆(編集の最高責任者)に就任。二・二六事件直後の混乱期、戦時統制下の言論を取り仕切る重要な立場となった。

昭和 18 年(1943 年)、朝日新聞 副社長。戦時下の 大本営発表・情報統制の現実と直接向き合いながら、「ぎりぎりの言論の自由」を朝日新聞内で維持しようと試みた。広田弘毅・中野正剛ら同郷の政治家とも連絡を保ち、和平派の情報網の一端を形成した。

昭和 19 年(1944 年)、朝日新聞退社。小磯国昭内閣(青山霊園 1種ロ8号で既登録)の 国務大臣・情報局総裁として入閣。終戦工作の一翼を担った。

戦後 — A 級戦犯指定から自民党結成へ

昭和 20 年(1945 年)8 月の終戦後、鈴木貫太郎内閣・東久邇宮内閣でも 国務大臣・内閣書記官長として留任。

昭和 20 年 12 月、GHQ により A 級戦犯容疑者として指定されたが、起訴は免れた(不起訴処分)。しかし 公職追放(1947-1951 年)で 4 年間政界から離脱を余儀なくされた。

昭和 27 年(1952 年)、公職追放解除。吉田茂(第 4 次内閣)に 官房長官・副総理として迎えられ、自由党幹事長を経て 政界再編の中核となる。

昭和 30 年(1955 年)11 月 15 日、自由党と日本民主党の保守合同が実現し、自由民主党結成。緒方は鳩山一郎・三木武吉・大野伴睦らと並ぶ 保守合同の立役者で、初代総裁就任が確実視されていた(自民党は当初、4 人の総裁代行委員制で発足、その後の正式総裁選で緒方有利の見方が強かった)。

昭和 31 年 1 月 28 日、東京で急逝

昭和 31 年(1956 年)1 月 28 日朝、自宅で 心臓発作を起こし、東京・上目黒の自邸で死去。享年 68(誕生日の 2 日前)。

緒方の死は、戦後保守政治の最有力首相候補の喪失として政界に衝撃を与えた。緒方が生きていれば、自民党初代総裁・首相として、その後の 岸信介(1957-60)・池田勇人(1960-64)・佐藤栄作(1964-72)の時代とは異なる政治史が展開した可能性が高い。

緒方の死後、石橋湛山が自民党初代総裁・首相に選出されたが、すぐに病気で退任、岸信介が次の首相となった。

親族の著名人

逸話・エピソード

頭山満との 50 年 — 玄洋社の少年が新聞主筆になっても

修猷館中学生の頃から頭山満に師事した緒方は、朝日新聞主筆になっても副総理になっても、上京すれば必ず頭山邸に足を運んだ。「先生に挨拶せずに政治の話はできない」 — 戦後の保守合同の構想を頭山に語り、頭山は黙って頷いて茶を勧めたという。

二人の関係は 50 年に及び、頭山が昭和 19 年(1944 年)に死去するまで一度も切れなかった。明治のアジア主義者の総帥と、戦前のジャーナリズムを率いて戦後の保守合同を主導した政治家 — 思想的には別物のようでいて、玄洋社のネットワークが昭和の政界中枢にまで届いていたことを、この師弟関係はそのまま示している。

「自民党初代総裁、確実視」 — 死の二日前まで

昭和 31 年(1956 年)1 月 28 日朝、自宅で心臓発作を起こした緒方は、医師が駆けつけたときには既に息を引き取っていた。享年 68、誕生日の二日前である。同年 4 月に予定されていた自民党初代正式総裁選では、鳩山一郎の後継として緒方が最有力と見られていた。

「あと 3 か月生きていれば、初代総裁から首相だった」 — 自民党内では長くそう語られた。実際、緒方の死後に総裁となった石橋湛山は病気で 2 か月で退任、続く岸信介の登場で「岸‐池田‐佐藤」の流れができていく。緒方が生きていたら、戦後保守政治の流れは別の経路をたどっていた可能性が高い。「戦後最大の if」と政治史家が呼ぶこの早世は、玄洋社系の人脈・朝日新聞の言論力・保守合同の調整力 — そのすべてを一人で抱えた稀有な政治家の喪失だった。

青山霊園に眠る

緒方竹虎の墓は、青山霊園 1種イ5号17側。同じ「1種イ5号」の区画には、博愛社を創設した 佐野常民(26 側)、後藤新平(1 側)、大木喬任(7 側)、新潮社創業者 佐藤義亮(22 側)、森永製菓創業者 森永太一郎(2 側)など、近代日本の制度設計者・実業家・出版人が並ぶ。

戦前のジャーナリズムを率い、戦後の保守合同を主導した男が、明治の元勲・実業家・出版人と同じ区画に眠っている。「明治から戦後」の日本政治史を一人の半生で接続した緒方の墓所は、1種イ5号を 「近代日本の制度作りの墓地」として象徴する配置となった。

緒方が生涯仰いだ 頭山満(玄洋社総帥、1種ロ8号)とは別区画だが、同じ青山霊園に眠ることで、玄洋社系の人脈と明治の元勲が霊園全体で繋がっている地形となっている。

墓参り写真

  • 墓所

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墓所の位置

関与した事件

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参考資料

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