平井 加尾
ひらい かお
Hirai Kao
土佐藩・平井家の娘。坂本龍馬の幼馴染で初恋の人とも伝えられる。山内豊範の妹・友姫の御付役として上洛、維新後は西山志澄に嫁いだ。
龍馬の初恋の人 — 土佐から京都、そして青山霊園へ
平井加尾は、土佐藩士・平井直澄(直亮)の長女として土佐で生まれた女性で、坂本龍馬の幼馴染、そして「龍馬の初恋の人」とも伝えられている人物である。兄・平井収二郎は土佐勤王党の幹部として活躍した志士で、龍馬・武市半平太とは盟友の関係にあった。
加尾は安政6年(1859年)、土佐藩前藩主・山内豊熈の妹・友姫が三条公睦(後の三条実万の養女として三条家に入った姫君)に嫁ぐ際、御付役として上洛、京都で公家社会に出入りした(文久2年・1862年まで)。文久元年(1861年)、龍馬から京都の加尾に宛てて「男装の準備一式を整えてほしい」と頼む手紙が残っており、勤王運動を支援していたとされる。
維新後、後の代議士・警視総監となる西山志澄に嫁ぎ、東京で暮らした。明治42年(1909年)、72歳で死去。
土佐の平井家 — 兄・収二郎と幼馴染・龍馬
天保9年(1838年)、土佐国(現・高知県高知市)で、土佐藩士・平井直澄(直亮)の長女として生まれる。生年月日の正確な記録は伝わらない(1838年生・1909年没のみ確認)。
平井家は中級士族で、兄・平井収二郎(1835-1863)は土佐勤王党の幹部として武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎らと共に活動した志士である。加尾はその妹として、龍馬とは少年・少女期から親しく、後年に司馬遼太郎は『竜馬がゆく』で田鶴姫の名で加尾の面影を残した(原文ママ)。
安政6年 — 京都・三条家への奉公
安政6年(1859年)、加尾は土佐藩前藩主・山内豊熈の妹・友姫(三条家へ嫁す)の御付役として上洛、三条家に出入りする立場となった。21歳。同年は安政の大獄が最高潮で、京都の公家社会も水面下で激しく動いていた時期である。
文久元年(1861年)、加尾の元に龍馬から書状が届く。「ぜひ、ふくをこしらえてもらいたく。すなわち、まんごく(萬石)袴、ぶっさき羽織、宗十郎頭巾、こしらえくだされたく」 — 男装の支度を依頼する内容で、加尾を勤王の同志として信頼する龍馬の様子が伺える。これが俗に「龍馬の許嫁説」「初恋の人説」の根拠となった有名な書簡である(ただし許嫁関係は史実として確証なし)。
文久3年(1863年)、兄・平井収二郎が土佐藩の山内容堂による土佐勤王党弾圧で切腹。加尾は京都の御付役を辞して土佐に戻った。慶応3年(1867年)11月、龍馬も近江屋事件で凶刃に倒れる。加尾の青年期は、兄と幼馴染を相次いで失う形で終わった。
維新後 — 西山志澄夫人として
明治5年(1872年)頃、土佐藩出身の警察官僚・西山志澄(後の警視総監・衆議院議員)と結婚。西山志澄は土佐勤王党の同志でもあった人物で、加尾の人生はそのまま土佐勤王党の血脈の中で結ばれた。
夫の任地に従って東京で暮らし、後半生を西山家の家庭婦人として過ごした。明治22年(1889年)、夫・志澄が貴族院議員・警視総監を歴任する中、加尾は静かに家を守った。
明治42年、東京で逝去
明治42年(1909年)、東京で死去。享年72。生年と同様に没年月日の詳細は伝わらない。葬儀は神葬式で営まれ、墓所は青山霊園 1種ロ14号9側に定められた。
逸話・エピソード
龍馬から届いた「男装の支度を」の手紙
文久元年、京都の三条家に奉公中の加尾の元に、土佐の坂本龍馬から一通の書状が届いた。「ぜひ、ふくをこしらえてもらいたく。すなわち、まんごく袴、ぶっさき羽織、宗十郎頭巾、こしらえくだされたく」 — 男装一式の支度を依頼する内容である。当時の女性に対して男装の支度を頼むという発想自体が異例で、龍馬が加尾を勤王の同志として、かつ機転の利く相談相手として信頼していたことが伺える。この手紙が現存することで、加尾は「龍馬の初恋の人」「許嫁」として語り継がれることになった。
兄と幼馴染を相次いで失った青年期
文久 3 年、兄・平井収二郎が土佐藩主・山内容堂の土佐勤王党弾圧で切腹。加尾は京都の御付役を辞して土佐に戻り、兄の死を悼んだ。それから 4 年後の慶応 3 年 11 月、京都・近江屋で坂本龍馬が暗殺される。20 代後半までに、加尾は兄と幼馴染という最も近しい二人の男性を、いずれも幕末の刃で失った。後年、加尾は龍馬についてほとんど語らなかったと伝わる。沈黙そのものが、ひとつの追悼だったのかもしれない。
青山霊園に眠る
平井加尾の墓は、青山霊園 1種ロ14号9側にある。同じ青山霊園には、龍馬の幼馴染で土佐藩士だった後藤象二郎、土佐勤王党系の人物が眠り、また龍馬の海援隊員だった白峰駿馬の墓も近い。
「龍馬の初恋の人」として歴史小説・大河ドラマで度々取り上げられる女性が、後の代議士の妻として東京に骨を埋め、青山の一画に静かに眠っている。土佐の若い志士たちが幕末を駆け抜けた時代の、もう一つの記憶を伝える墓所である。


