後藤 象二郎 (1838-1897)の肖像
後藤 象二郎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

後藤 象二郎

ごとう しょうじろう

Goto Shojiro

大政奉還建白の主役。坂本龍馬と組んで土佐藩主・山内容堂を動かし、自由民権運動の旗手として大同団結を主導した土佐の風雲児。

生没年
出身地
土佐国(現・高知県高知市)
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
農商務大臣
爵位
伯爵
所属
海援隊 / 自由党
区画
1種イ13号24側
タグ
大政奉還 / 海援隊 / 自由民権運動 / 大同団結 / 伯爵

大政奉還を演出した土佐の風雲児

後藤象二郎は、慶応 3 年(1867 年)10 月の 大政奉還を、坂本龍馬とともに構想・実行した土佐藩士である。坂本の「船中八策」を土佐藩政府に持ち帰り、藩主・山内容堂を動かして「大政奉還建白書」を将軍・徳川慶喜に提出させた。

維新後は明治政府の参議、明治六年政変で下野した後は板垣退助らと 自由民権運動を主導。「民撰議院設立建白書」「大同団結運動」によって、明治の政党政治の地ならしを行った。

第 1 次山県内閣の逓信大臣、第 2 次伊藤内閣の農商務大臣を歴任、伯爵に叙された。幕末・維新・自由民権・明治政府 — どの場面でも中央に立ち回った、稀有なフィクサー型の政治家である。

吉田東洋門下の俊英

天保 9 年(1838 年)、土佐藩士・後藤助右衛門の長男として高知城下に生まれる。母方の叔父は土佐藩参政・吉田東洋。10 代から吉田の私塾「鶴田塾」に入り、当時無名だった板垣退助らとともに学んだ。

文久 2 年(1862 年)、吉田東洋が土佐勤王党の岡田以蔵らに暗殺されると、その下手人探索を担当。これが後年、土佐勤王党を弾圧する側に回る伏線となる。

慶応元年(1865 年)、藩の 大監察兼参政として開明派の中心人物となり、長崎で 「開成館」を運営。藩営商社・通商機関として軍艦・武器を購入する一方、海援隊の坂本龍馬とも接触するようになる。

坂本龍馬との「船中八策」 — 大政奉還への道

慶応 3 年(1867 年)6 月、長崎から京都へ向かう藩船・夕顔丸の船中で、後藤は坂本龍馬から 「船中八策」を聞かされた。大政奉還・議会開設・憲法制定・海軍創設などを骨子とする政体案である。

後藤は感銘を受け、土佐藩主・山内容堂(豊信)を動かす段取りに入った。同年 10 月 3 日、容堂は徳川慶喜に 「大政奉還建白書」を提出。同 14 日、慶喜は 大政奉還を上表し、260 余年続いた江戸幕府は終わりを告げた。

しかし、後藤と坂本の協働は短く終わる。慶応 3 年 11 月 15 日、坂本龍馬は京都・近江屋で暗殺された。後藤は事件直後に現場に駆けつけたとも伝わる。盟友を失ったまま、後藤は新政府に出仕することになる。

明治政府で参議、そして下野

明治政府では、参与・参議・大蔵省御用掛・元老院議官などを歴任した。

明治 6 年(1873 年)、いわゆる 明治六年政変(征韓論政変)で西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣らとともに下野。翌明治 7 年(1874 年)1 月、板垣・江藤・副島・由利公正らと 民撰議院設立建白書を提出し、自由民権運動の口火を切った。

明治 14 年(1881 年)、板垣を党首とする 自由党結成に参加(後藤は副領袖格)。同年の自由党党首・板垣を岐阜で襲った暴漢事件(「板垣死すとも自由は死せず」)の直後、後藤は ヨーロッパ視察に同行した。

大同団結運動 — 民権派の総結集

明治 20 年(1887 年)、後藤は 大同団結運動を提唱。星亨らとともに、解散していた自由党・改進党・国民派の民権派を「条約改正・地租軽減・言論集会の自由」の 3 大要求で再結集させようとした。井上馨外相の条約改正案に反対し、政府を退陣に追い込んだ「三大事件建白運動」へと展開する。

しかし政府の 保安条例(明治 20 年 12 月)で東京から追放され、運動は分裂。後藤自身は明治 22 年(1889 年)、第 1 次山県内閣の 逓信大臣として入閣。これが民権派からは「裏切り」と批判され、星亨らと袂を分かつことになる。

逓信相・農商務相を歴任、伯爵に

逓信大臣として、後藤は 電信・郵便事業の整備を進めた。明治 25 年(1892 年)、第 2 次伊藤博文内閣の 農商務大臣として再入閣。

しかし明治 26 年(1893 年)、後藤が政府要職にあるうちに進めた 高島炭鉱の三菱への払下げを巡る不透明な経緯が、国会で激しく追及された。「高島炭坑事件」 — 後藤の政治家としての晩年に陰を落とした問題である。後藤は責任を取って農商務相を辞任した。

明治 20 年(1887 年)伯爵に叙され、後藤家は華族に列した。

明治 30 年 8 月 4 日、逝去

晩年は実業家として高島炭鉱・北海道炭礦鉄道などに関わったが、健康を害し、明治 30 年(1897 年)8 月 4 日、東京で死去。享年 60。葬儀は青山霊園に営まれた。

親族の著名人

逸話・エピソード

夕顔丸の船中、龍馬と語り合った一夜

慶応 3 年 6 月、長崎から京都へ向かう藩船・夕顔丸の船室。後藤は坂本龍馬と差し向かいで、龍馬が懐から取り出した一冊の手帳を覗き込んだ。後の「船中八策」の原型である。後藤は当初「これは幕府を倒す気か」と訝ったが、龍馬は「いや、徳川公自ら大政を奉ずる形にすれば、武力倒幕も不要となる」と返したと伝わる。一夜にして大政奉還の構想を理解した後藤は、上陸後すぐに山内容堂への根回しに動き出した。維新前夜、土佐の船室で交わされた一晩の議論が、日本史の進路を変える起点となった。

派手好み — 散財と借金王

後藤は「土佐の風雲児」と称されながら、私生活では派手好きで知られた。料亭・芸者・贅沢な邸宅・洋装 — 維新後、参議クラスの俸給では到底足りず、伊藤博文・井上馨らに借金を重ねたと伝わる。「政治家が金に細かくては大事は成らぬ」が本人の弁だったが、岩崎弥之助との縁で三菱と接近し、高島炭鉱事件で晩節を汚す遠因となった。豪放磊落と詰めの甘さ、両方が同居した男だった。

龍馬暗殺の夜 — 近江屋に駆けつけた

慶応 3 年 11 月 15 日夜、京都・近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎が襲撃された一報を受け、後藤は深夜にもかかわらず現場に駆けつけたと伝わる。龍馬の遺骸を前にして声もなく涙したという同行者の証言が残されている。大政奉還の同志であり、土佐藩を動かす上で龍馬の構想力が不可欠だった後藤にとって、盟友の死は政治的にも個人的にも痛恨だった。葬儀の手配にも自ら関わったとされる。

青山霊園に眠る

後藤象二郎の墓は、青山霊園 1種イ13号24側。同じ「1種イ」エリアには大久保利通(2号)、岩倉具視関係の華族、自由民権運動家・植木枝盛(11号)など、明治の政体を作った同世代の偉人たちが集まる。

坂本龍馬とともに大政奉還を演出し、自由民権運動を扇動した男が、明治政府の伯爵として青山霊園に眠る — 幕末から明治への激動を体現する人生の終着点である。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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