三宅 雪嶺
みやけ せつれい
Miyake Setsurei
明治期を代表する哲学者・評論家。政教社を結成し雑誌『日本人』を創刊、国粋主義を掲げて欧化主義に対峙した論壇の長老。
明治の論壇を「国粋」で照らした哲学者
三宅雪嶺は、明治・大正・昭和を貫く 60 年余の言論活動で「論壇の長老」と呼ばれた哲学者・評論家・ジャーナリストである。本名・雄二郎。万延元年(1860 年)、加賀藩医の家に生まれ、金沢で漢学の素養を受けたのち上京し、東京大学文学部哲学科を明治 16 年(1883 年)に卒業した。
明治 21 年(1888 年)、志賀重昂・井上円了・杉浦重剛らと「政教社」を結成し、雑誌『日本人』(後の『日本及日本人』)を創刊。徳富蘇峰の民友社が掲げた平民主義・欧化主義に正面から対峙し、日本固有の伝統と国民性に立脚した文明論を掲げた。これが後に「国粋主義」と呼ばれる思想潮流の出発点となる。雪嶺の言う「国粋」は、外国排斥や狭量な国家主義ではなく、日本という共同体が長く培ってきた価値の独自性を世界文明の中に位置づけ直そうとする、文明論的な提案だった。
明治 24 年(1891 年)、代表作となる『真善美日本人』と『偽悪醜日本人』の二冊を相次いで発表。日本人の長所と短所を哲学的に対比した本書は、当時の若者に強い印象を残し、雪嶺の名を一躍論壇に押し上げた。妻・三宅花圃(本名・田辺龍子)は坪内逍遥門下の女性作家で、明治文壇でも知られた存在である。
政教社結成 — 民友社との論戦
明治 20 年代の日本は、井上馨らによる欧化政策の極点としての鹿鳴館時代を経て、急速な西洋模倣への反動が広がり始めた時代だった。雪嶺は同志たちと「政教社」を結成し、雑誌『日本人』をその機関誌に据える。創刊号で雪嶺は、欧米列強の文明をそのまま輸入する政策を批判し、日本の自然・歴史・国民性に即した近代化の道を主張した。
徳富蘇峰の『国民之友』と雪嶺の『日本人』は、それぞれ平民主義・欧化主義と国粋主義を掲げて、明治 20 年代の論壇を二分した。両誌の論争は、後の三宅雪嶺・徳富蘇峰・山路愛山・志賀重昂を「明治論壇の四天王」と呼ばせる時代の言論を生んだ。雪嶺の主張は、後に国家主義に転化する危うさを孕みつつも、当初は文明批評として国際的視座を持ち、ヨーロッパ中心主義への批評的視点を明治日本に提供した。
『真善美日本人』『偽悪醜日本人』 — 60 年の言論
明治 24 年(1891 年)、雪嶺は『真善美日本人』を刊行する。日本人が世界に貢献しうる「真・善・美」の長所を哲学的に論じた本書は、ベストセラーとなり、続けて『偽悪醜日本人』で日本人の短所を冷徹に分析した。長所と短所を対にして語る構成は、当時の単純な国威発揚論とは一線を画す批評的厚みを持ち、若き読者層に強い知的刺激を与えた。
その後も雪嶺の筆は止まらない。『同時代史』『宇宙』『大学今昔譚』など著作は数十冊を数え、政教社が改題した『日本及日本人』や個人雑誌『我観』を通じて、明治末から大正・昭和に至るまで論壇に発言を続けた。徳富蘇峰が時の権力と距離を縮めていったのに対し、雪嶺は終生、在野の評論家としての立場を貫き、「論壇の長老」と呼ばれるに至る。長女・三宅鏘子の夫は政治家の中野正剛で、雪嶺の言論はその家庭環境を通じても次代に受け継がれた。
大磯の隠棲先で迎えた最期
太平洋戦争末期、東京の戦災を避けて雪嶺は神奈川県大磯町に疎開した。昭和 20 年(1945 年)8 月の終戦を大磯で迎えた雪嶺は、戦後の混乱の中で体調を崩し、同年 11 月 26 日、大磯の疎開先で世を去った。享年 85。明治・大正・昭和という日本近代の全時代を、言論者として書き続けて閉じた生涯だった。
葬儀は青山斎場で行われ、墓所は青山霊園に営まれた。同じ墓には、坪内逍遥門下の女性作家として知られた妻・三宅花圃が眠る。
青山霊園に眠る
三宅雪嶺の墓は青山霊園 1種イ8号16・17側。妻・三宅花圃と並んで葬られている。
近接する 1種イ区画には、明治の元勲・大久保利通や同時代の言論人・政治家たちが多く眠り、明治論壇を共に形作った人物群が同霊園の各区画に分かれて静かに眠っている。明治の論壇を「国粋」で照らした哲学者は、自らの言論が射した日本近代の中央部、東京の青山の地に最終的に帰ってきたことになる。




