宮脇 俊三
みやわき しゅんぞう
Miyawaki Shunzo
鉄道紀行作家。元中央公論社編集者。『時刻表2万キロ』で鉄道紀行を文学のジャンルに昇格させた戦後の名随筆家。
鉄道紀行を文学にした男
宮脇俊三は、鉄道紀行を一つの文学ジャンルにまで高めた、戦後日本を代表する随筆家である。東京に生まれ、東京大学文学部西洋史学科を卒業後、中央公論社に入社。『日本の歴史』『世界の歴史』のシリーズ企画、『中央公論』『婦人公論』の編集長を歴任した、戦後出版界を代表する編集者の一人である。
51歳で中央公論社を退社し、子供のころからの趣味だった鉄道乗車記録をまとめた『時刻表2万キロ』(1978年)で作家デビュー。同書で日本ノンフィクション賞を受賞すると、続く『最長片道切符の旅』『時刻表昭和史』『シベリア鉄道9400キロ』など、国内外の鉄道を題材にした紀行を次々と発表し、「鉄道に乗ること自体を主題にする文学」の地平を切り開いた。2003年、76歳で死去。
戦中の少年が時刻表に出会う
大正15年(1926年)12月9日、東京府で生まれる。父・宮脇長吉は衆議院議員。少年時代から時刻表に親しみ、戦時下にも国鉄全線を地図に塗りつぶす遊びに熱中していたという。
昭和20年(1945年)8月15日、東京の自宅で玉音放送を聞いた直後、宮脇はその足で東京駅に向かい、列車に乗る。後に『時刻表昭和史』で書いたこの記憶 — 戦争が終わった日、鉄道で旅をした少年の一日 — は、戦後文学の中でも特異な一節として記憶されている。
編集者としての三十年
東京帝国大学(後の東京大学)文学部西洋史学科を卒業後、昭和26年(1951年)に中央公論社に入社。中央公論新書の創刊、『日本の歴史』『世界の歴史』のシリーズ企画など、戦後出版史に残る仕事を担当した。
『中央公論』編集長(1965-1968年)、『婦人公論』編集長(1970-1974年)、出版部長、編集局長と昇進したが、社内政治と出版業の合理化に疲れ、昭和53年(1978年)、51歳で中央公論社を退社。退社時の挨拶状で「これから時刻表を持って旅に出ます」と書いた逸話が残る。
『時刻表2万キロ』 — 鉄道紀行という新ジャンル
退社直後の昭和53年(1978年)、河出書房新社から処女作『時刻表2万キロ』を刊行。長年かけて国鉄全線約2万キロを完乗した記録で、各路線の風景・車内の人々・鉄道史的なエピソードを淡々と織り込んだエッセイ集である。同書で日本ノンフィクション賞を受賞、ベストセラーとなった。
宮脇は続く『最長片道切符の旅』(1979年)で「最長片道切符」というルールに挑み、北海道から鹿児島まで国鉄を一筆書きで乗り通すという発想で読者を驚かせる。「鉄道に乗ること自体を文学にする」というスタイルが、ここで完成した。
海外鉄道紀行から鉄道史エッセイへ
『中国火車旅行』(1982年)、『シベリア鉄道9400キロ』(1982年)、『インド鉄道紀行』(1984年)、『台湾鉄路千公里』(1980年) — 海外鉄道紀行の連作で読者を世界に運んだ。
並行して、『時刻表昭和史』(1980年)、『鉄道廃線跡を歩く』シリーズなど、鉄道史をエッセイで描く仕事も精力的にこなした。鉄道紀行は宮脇の手で、子供時代の郷愁・近代日本史・地理学的想像力をすべて呑み込む文学になった。
平成元年(1989年)以降、鉄道誌・新聞各紙の連載も増え、平成11年(1999年)、菊池寛賞を受賞。生涯の著作は90冊以上に及び、小学館から全23巻の『宮脇俊三 電子全集』が編まれている。
平成15年2月、東京で逝去
平成15年(2003年)2月26日、東京で死去。享年76。葬儀は親族のみで営まれ、墓所は青山霊園 1種ロ7号15側に定められた。
逸話・エピソード
「これから時刻表を持って旅に出ます」 — 退社挨拶状の一行
51 歳で中央公論社を退社する際、宮脇が取引先・著者に送った挨拶状の末尾には「これから時刻表を持って旅に出ます」とだけ書かれていた。出版界では大きな話題になり、「あの宮脇が会社を辞めて旅に出る」というニュースとして文芸誌でも取り上げられた。挨拶状を受け取った司馬遼太郎・松本清張ら担当作家たちは、宮脇の「次の人生」を半ば心配し半ば羨望したと回想している。実際、退社の翌年に『時刻表 2 万キロ』を出版して作家デビューを果たし、挨拶状の予告通りに「旅と時刻表」を生業にした。
8 月 15 日、玉音放送の後に上野駅へ
『時刻表昭和史』に書かれた有名な場面 — 昭和 20 年(1945 年)8 月 15 日の正午、東京・大森の自宅で玉音放送を聞いた 18 歳の宮脇は、その足で上野駅に向かい、米坂線方面に向かう列車に乗った。戦時中ずっと運休していた長距離列車が「終戦の日から再開」した最初の便だった。車内では制服姿の復員兵や疎開帰りの家族が黙って外を眺め、戦争が終わったことを誰も話題にしなかった。宮脇は「玉音放送の日、自分は列車の窓から日本の風景を見ていた」と書き、これが戦後文学の中でも独特の戦争終結の記憶となった。
「最長片道切符」 — 国鉄当局を本気で困らせたルール
『最長片道切符の旅』(1979 年)で宮脇が挑戦した「北海道広尾駅から鹿児島県枕崎駅までの最長片道切符」は、国鉄全線網を一筆書きで結ぶルートを計算する難題で、宮脇は東京大学の数学科出身者にルート最適化を依頼した。発券窓口で出された「13,319.4 km / 65,000 円超」の切符は、国鉄職員も処理に困惑した記録が残る。連載中、全国の鉄道ファンが「自分のルートのほうが長い」と挑戦状を送りつけ、宮脇は雑誌でその検証も行った。鉄道紀行というジャンルが、読者参加型のサブカルチャーに広がる出発点になった。
青山霊園に眠る
宮脇俊三の墓は、青山霊園 1種ロ7号15側にある。同じ「1種ロ7号」の区画には、近代日本の様々な分野の人物が眠る。
戦後の出版を支えた編集者が、自分の趣味だった鉄道紀行を文学にまで仕立て、76歳で旅を終える — その軌跡は、戦後日本の余暇文化・サラリーマンの定年後・読書文化のすべてを横断する。鉄道好きの読者が彼の墓を訪ねるとき、それは1冊の旅行記の最後のページをそっと閉じる行為に近い。



