副島 種臣 (1828-1905)の肖像
副島 種臣の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

副島 種臣

そえじま たねおみ

Soejima Taneomi

佐賀の七賢人の一人。明治政府の外務卿としてマリア・ルス号事件で奴隷的契約を解放し、東洋随一と評された書の大家。

生没年
出身地
佐賀県佐賀市(佐賀城下)
死没地
東京都
時代
江戸・明治
役職
政治家・外交官・書家
爵位
伯爵
出身校
弘道館
所属
義祭同盟
区画
1種イ21号1側
タグ
佐賀の七賢人 / 外務卿 / マリア・ルス号事件 / 民撰議院設立建白書 / 書の達人

「佐賀の七賢人」 — 明治政府の外務卿、東洋随一の書家

副島種臣は、佐賀藩出身の政治家・外交官・書家である。大隈重信・江藤新平・大木喬任佐野常民・島義勇・鍋島直正とともに 「佐賀の七賢人」と並び称される。

明治 4 年(1871 年)から明治 6 年(1873 年)まで 外務卿(現在の外務大臣)を務め、マリア・ルス号事件で中国人苦力(クーリー)を奴隷的契約から解放した国際裁判の主宰者となった。日本が近代国家として国際社会に「人道」の名で介入した最初の事件である。

明治六年政変で下野した後は、板垣退助・後藤象二郎らと 民撰議院設立建白書に名を連ね、自由民権運動の口火を切った。晩年は宮中顧問官・枢密顧問官となり、伯爵に叙された。

そして — 副島の名を日本書道史に永遠に残したのが、「蒼海(そうかい)」と号した独特の書風である。漢学・国学の素養と中国清朝六朝書の感化を融合させた重厚な筆致は「東洋随一の書家」と評され、現在も書道愛好家のあいだで珍重されている。

神陽の弟、佐賀藩の俊英

文政 11 年(1828 年)9 月 9 日、佐賀城下の枝吉家に生まれる。父・枝吉南濠 は佐賀藩の国学者、兄・枝吉神陽 は幕末の佐賀藩を思想的に支えた水戸学者で、大隈重信・江藤新平・大木喬任ら若手藩士の指導者であった。

19 歳で兄・神陽が主宰した 「義祭同盟」(楠木正成を祀る私塾的集団)に加わり、尊王思想を深める。後に副島家の養子となり、藩校・弘道館の教授となった。

幕末には京都に潜入して情報収集にあたり、慶応 3 年(1867 年)の 大政奉還にも、土佐藩の後藤象二郎・坂本龍馬らとは別ルートで関与した。

外務卿としての 2 年 — マリア・ルス号事件

明治 4 年(1871 年)11 月、岩倉使節団が欧米歴訪に出発すると、副島は留守政府の 外務卿に就任した(初代外務卿)。

その翌年、明治 5 年(1872 年)7 月、横浜港に寄港したペルー船 マリア・ルス号から、清国人苦力 1 人が脱出し、英国軍艦に救助を求めた。船倉には 230 名余の中国人が奴隷的契約で運ばれていた。

副島は 「人道と国際法に照らし日本が裁く」と決断。神奈川県令・大江卓を裁判官に任じ、ペルー側の抗議を退けて全員を解放した。ペルーは賠償を求めて国際仲裁に持ち込んだが、明治 8 年(1875 年)ロシア皇帝アレクサンドル 2 世の仲裁で日本側の措置が正当と認められた。

外務卿としてはほかにも、琉球の帰属問題(琉球漂流民殺害事件 → 台湾出兵への伏線)で清国に 特命全権大使として渡り、同治帝に拝謁。柔と剛を使い分けた外交手腕は同時代の外交官から畏敬された。

明治六年政変と民撰議院設立建白書

明治 6 年(1873 年)10 月、いわゆる 明治六年政変(征韓論政変)で、副島は西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らと共に 参議を辞職して下野した。

翌明治 7 年(1874 年)1 月 17 日、副島は板垣・後藤・江藤・由利公正らとともに 「民撰議院設立建白書」を左院に提出した。憲法発布の 15 年前のこの建白書が、日本の議会政治の出発点となる。

しかし副島は江藤らの 佐賀の乱(明治 7 年 2 月)には加わらず、欧米外遊に出発。在野の自由民権運動の中心からは離れて、東洋古典・書道・漢詩文の世界に深く沈潜していった。

「蒼海」 — 東洋随一と評された書

副島は号を 「蒼海(そうかい)」といった。書は若年から名高かったが、外務卿退任後、特に明治 10 年代以降、清国渡航で六朝書(北魏など)の拓本に接して影響を受け、重厚で骨太、しかも動勢に富む独自の書風を確立した。

明治 20 年代になると清国の書家・楊守敬らと書簡を交わし、「日本人で漢字書をここまで極めた者はいない」と評された。現在も副島の書は日本書道史の最高峰の一つとして、博物館・美術館に所蔵される。

宮中顧問官として、明治 38 年 1 月 31 日に逝去

明治 12 年(1879 年)、政界復帰。宮中顧問官となり、明治天皇の側近として漢学・古典の進講を担当した。

晩年は政治の表舞台より、書と漢詩文に生きた。明治 38 年(1905 年)1 月 31 日、東京で死去。享年 77。

親族の著名人

逸話・エピソード

同治帝への単独拝謁

明治 6 年(1873 年)、副島は特命全権大使として清国に渡り、同治帝への拝謁を求めた。当時の清国では西洋諸国の使節に対しても「三跪九叩頭」(三度跪き九度頭を地につける)の礼を求めていたが、副島はこれを拒否、立礼での拝謁を主張した。清朝側との折衝の末、副島は西洋使節と並んで立礼で同治帝に拝謁することに成功した。中国の伝統的外交儀礼を突破した最初の使節の一人として、副島の外交手腕は同時代の欧米外交官からも畏敬を集めた。

「蒼海」の書 — 清国書家との往復書簡

外務卿退任後の副島は、清国の著名書家・楊守敬と書簡を交わし、六朝書の拓本を互いに送り合った。明治期の日本人で漢字書において清国書家に「我等の及ぶところに非ず」と評された人物は副島ただ一人とされる。号「蒼海」は「青く広い海」を意味し、副島の書の重厚で動勢に富む筆致を象徴している。現在も書道美術館で副島の書は別格扱いを受ける。

民撰議院設立建白書、わずか 3 か月後の沈黙

明治 7 年(1874 年)1 月、副島は板垣退助・後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を左院に提出した。だが同年 2 月、江藤新平が佐賀の乱を起こすと、副島は江藤に同調せず、その後静かに欧米外遊に出発した。民権の口火を切りながら、武力反乱の道を選ばず、晩年は書と漢詩文の世界に深く沈潜した。「政治家であることをやめた政治家」として、副島の後半生は明治期で最も異色である。

青山霊園に眠る

副島種臣の墓は、青山霊園 1種イ21号1側。同じ「1種イ21号」の区画には、軍人として旅順港閉塞作戦で散った 広瀬武夫(9 側)、騎兵を育てた 秋山好古 などが眠る。

「佐賀の七賢人」の盟友のうち、佐野常民は 1種イ5号、副島は 1種イ21号と、ともに青山霊園のイ区画で永眠している。

墓参り写真

  • 墓所

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墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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