篠原 泰之進
しのはら たいのしん
Shinohara Tainoshin
新選組副長助勤・御陵衛士。伊東甲子太郎の同志として新選組を脱退、油小路事件を生き延びた数少ない新選組脱退者。明治政府で警視庁に勤務、回想録『秦林親日記』を残した。
新選組から御陵衛士へ — 油小路事件を生き延びた男
篠原泰之進は、慶応元年(1865 年)に 新選組に入隊、副長助勤・諸士調役兼監察として活動した後、慶応 3 年(1867 年)に 伊東甲子太郎らとともに新選組を脱退して 御陵衛士(高台寺党)を結成、同年 11 月の 油小路事件で 伊東を新選組(近藤勇・土方歳三)に暗殺された際に 負傷しながらも脱出した、新選組脱退者として稀有な生き残りの一人である。
戊辰戦争(1868-69 年)では新政府軍側として活動、明治新政府では 薩摩藩士格として遇され、警視庁(青山霊園 1種イ4号で既登録の 川路利良初代大警視のもと)に出仕。後に隠居して 『秦林親日記』(自身の回想録)を執筆、新選組・御陵衛士の内情を伝える第一級史料を残した。
新選組を題材にした多数の小説・大河ドラマ(『新選組!』2004 年・『燃えよ剣』など)で 重要キャラクターとして描かれる、幕末史で記憶される人物である。
久留米藩士の家、剣の道へ
文政 11 年(1828 年)1 月 11 日(陽暦 2 月 25 日)、筑後国久留米藩(現・福岡県久留米市)に久留米藩士・篠原嘉右衛門の子として生まれる。本名・秦林親(はた しげちか)。
少年期から剣才を発揮し、江戸に出て 柳剛流(やぎゅうりゅう系の実戦剣術)を修めた。剣豪としての名声を得、清河八郎(後の浪士組結成者)とも親交を持ったとされる。
慶応元年、新選組入隊
慶応元年(1865 年)、京都で 新選組に入隊。当時の新選組は 池田屋事件(元治元年/1864 年)で名声を博し、佐幕派の 武装組織として勢力拡大期にあった。
篠原は 副長助勤・諸士調役兼監察として、隊士の動向監視・新規入隊者の身元調査・京都市中の探索などに従事。伊東甲子太郎(参謀格)・藤堂平助(八番組組長)・斎藤一(三番組組長、密偵説あり)らと並ぶ、新選組の中枢メンバーの一人であった。
慶応 3 年、御陵衛士分離
慶応 3 年(1867 年)3 月、伊東甲子太郎(尊王攘夷派、新選組内で 倒幕を志向)が新選組を 離脱、御陵衛士(ごりょうえじ)・高台寺党を結成した。篠原もこれに同調、新選組を脱退した。
御陵衛士は 孝明天皇の御陵警備を名目に組織された 倒幕派志士集団で、京都の 高台寺月真院を屯所とした。メンバーは 伊東甲子太郎・藤堂平助・服部武雄・篠原泰之進・斎藤一(後に新選組に戻る)など 15 名前後。
慶応 3 年 11 月 18 日 — 油小路事件
慶応 3 年(1867 年)11 月 18 日、油小路事件(あぶらのこうじじけん)勃発。新選組(近藤勇・土方歳三)は伊東甲子太郎を 接待を装って酒席に呼び出し、帰路の 本光寺前(京都・油小路通り)で襲撃・暗殺。さらに死体を 路上に放置して、御陵衛士のメンバーをおびき出す囮にした。
伊東の死を知った御陵衛士の 藤堂平助・服部武雄・篠原泰之進・毛内有之助らが現場に駆けつけたところを、新選組が 40 余名で襲撃。藤堂・服部・毛内が斬死、篠原は 負傷しながらも脱出に成功した。
御陵衛士の生き残り(篠原・斎藤一を含む)は、その後の 薩摩藩の庇護を受けて 伏見・京都で活動を続け、戊辰戦争で 新政府軍として戦った。
戊辰戦争・明治政府
慶応 4 年/明治元年(1868 年)、鳥羽伏見の戦いで新政府軍として参加。薩摩藩士格として戦った。維新後は 薩摩藩(後の鹿児島県)の士族に編入された。
明治 7 年(1874 年)、警視庁(初代大警視・川路利良、青山霊園 1種イ4号で既登録)に出仕、警察官として東京に勤務。「新選組副長助勤が、明治の警察官になった」という、近代日本の不思議な軌跡を歩んだ。
明治後期、警視庁を退官して 隠居。自身の回想録 『秦林親日記』を執筆。新選組・御陵衛士の内情・池田屋事件・油小路事件などを 当事者証言として記録した同書は、現在の新選組研究の最も重要な一次史料の一つである。
明治 44 年 9 月 2 日、東京で逝去
明治 44 年(1911 年)9 月 2 日、東京で死去。享年 83。新選組創設(文久 3 年/1863 年)から 48 年を生き、新選組関係者として最も長生きした人物の一人となった。
葬儀は青山霊園に営まれた。
親族の著名人
- 篠原家(秦家)は久留米藩の士族系として、明治・大正の地方政界に複数の人材を送った
逸話・エピソード
油小路の闇夜、伊東の遺体の前で
慶応 3 年(1867 年)11 月 18 日深夜、油小路で伊東甲子太郎の遺体が路上に放置されているとの報を受けて駆けつけた篠原は、新選組 40 余名の襲撃を受けた。乱戦の中で藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が斬死する横で、篠原は深手を負いながら塀を越えて脱出。雪が降る寒夜の京都の闇に紛れて薩摩藩邸に辿り着いた経緯を、後年『秦林親日記』に克明に記している。新選組脱退者で油小路を生き延びた者は数えるほどしかいない。
警視庁制服を着た元・副長助勤
明治 7 年(1874 年)、篠原は警視庁に出仕した。初代大警視・川路利良のもとで、かつての敵・新選組局長近藤勇を捕縛・処刑した側の組織に勤めることになった。新選組の制服「だんだら羽織」を着て幕府の治安にあたっていた男が、明治の警察制服を着て新政府の治安にあたる — 近代日本史で最も不思議な転身の一つだった。
48 年後の証言
明治末期、篠原は『秦林親日記』を執筆した。新選組創設(文久 3 年/1863 年)から 48 年が経過しており、新選組関係者で第一級の長老となっていた。池田屋事件・油小路事件・伏見鳥羽の戦いの当事者証言は、現在の新選組研究の最重要史料となっている。「敵側の生き残り」が記録した新選組の内情だからこそ、近藤・土方の人物像を立体的に伝える資料となった。
青山霊園に眠る
篠原泰之進の墓は、青山霊園 2種イ12号3側。同じ「2種」エリアは「1種」より小規模の区画である。
新選組副長助勤を経て明治の警察官となった男が、彼が脱退した側の 新選組局長・近藤勇(板橋で処刑、現在は板橋・北区に墓)・土方歳三(箱館で戦死、五稜郭近くに墓)とは別の地に眠っている。勝者となった御陵衛士の生き残りが、青山霊園で 新政府を作った薩摩・長州元勲(大久保利通・川路利良ら)と同じ霊園に眠る配置は、戊辰戦争の 勝者・敗者の地理的構造を象徴している。
特に 川路利良(青山霊園 1種イ4号で既登録)は、明治警察制度を作った初代大警視であり、篠原はその警視庁に 新選組脱退者として出仕した。新選組から明治警察へという不思議な人生の軌跡が、青山霊園の地形で繋がっている。




