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鳥羽伏見の戦い


戊辰戦争の口火を切った京都南郊の戦闘。旧幕府軍と新政府軍が交戦、旧幕府軍の敗北で江戸開城へ向かう流れが決定。

Monument of Meijiishin Fushimi no senseki
Monument of Meijiishin Fushimi no senseki Photo memories 1868 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
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戦争

戊辰戦争の幕を切った京都南郊の砲声

鳥羽伏見の戦いは、慶応 4 年正月 3 日(陽暦 1868 年 1 月 27 日)から 6 日にかけて、京都南郊の鳥羽街道・伏見街道で旧幕府軍と新政府軍(薩摩・長州・土佐藩兵を主力)が衝突した戦闘である。兵力は旧幕府軍約 1 万 5,000、新政府軍約 5,000 と旧幕府側が 3 倍の数を擁しながら、4 日間の戦闘で旧幕府軍は大坂城まで敗走した。

この敗北は、ただの戦術的勝敗ではなかった。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことで旧幕府軍は「朝敵」となり、徳川慶喜は戦意を喪失して 6 日夜に大坂城を脱出、軍艦・開陽丸で江戸へ撤退した。総大将不在となった大坂城は無血開城、戊辰戦争はそのまま江戸開城・東北戦争・函館戦争へと拡大していく。前年 11 月の大政奉還で平和裏に進むかに見えた政権交代は、ここで本格的な内戦に転じた。

背景 — 王政復古から「辞官納地」へ

慶応 3 年(1867 年)10 月の大政奉還で政権が朝廷に返上された後、薩摩・長州を中心とする武力倒幕派は、徳川家の政治的影響力を完全に排除する道を急いだ。同年 12 月 9 日(陽暦 1868 年 1 月 3 日)、岩倉具視・大久保利通らは「王政復古の大号令」を発し、将軍・摂政関白・幕府の廃止と新政府樹立を一方的に宣言。同日夜の小御所会議で、慶喜に対する「辞官納地」(内大臣辞職と所領 400 万石の一部返上)が決定された。

旧幕府側はこれを「徳川家への狙い撃ち」と受け取り、京都・大坂で旧幕府軍兵士の間に薩摩藩への憤激が広がる。12 月 25 日、江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件(庄内藩兵による襲撃)が発生。報は大坂城の旧幕府軍に伝わり、薩摩との武力衝突を求める強硬論が一気に主流となった。

慶応 4 年正月 2 日(陽暦 1 月 26 日)、慶喜は「討薩表」(薩摩討伐の表明文)を朝廷に提出することを決定し、旧幕府軍は京都に向けて進発する。会津藩・桑名藩・新選組・見廻組・伝習隊など、旧幕府方の主要兵力が大坂から京都南郊へ北上を開始した。

戦闘の経過 — 鳥羽・伏見・淀・橋本

正月 3 日(陽暦 1 月 27 日)夕刻、鳥羽街道を北上していた旧幕府軍先鋒(大目付・滝川具挙ら)が、鳥羽・小枝橋付近で警備中の薩摩藩兵と接触。通行を巡る押し問答の末、薩摩側が砲撃を開始。これが戦端となった。

同時刻、伏見方面では伏見奉行所付近で、旧幕府軍(会津藩・新選組・桑名藩兵など)と長州・土佐藩兵が激突。市街戦に発展した。鳥羽方面では薩摩藩の野戦砲(アームストロング砲・四斤山砲)が旧幕府軍を圧倒。伏見方面では伏見奉行所が炎上し、新選組も後退を強いられた。

正月 4 日、新政府軍は「錦の御旗」(仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じた朝廷の旗)を陣中に掲げた。旧幕府軍にとってこれは決定的な打撃となる。「朝敵」の烙印は士気を一気に崩した。続く 5 日、淀城に退いた旧幕府軍は淀藩(藩主は老中・稲葉正邦)に入城を求めるが拒絶される。淀藩は新政府方への寝返りを決め、旧幕府軍は背後を断たれた。

正月 6 日、橋本(現・京都府八幡市)で旧幕府軍は再起を図るが、淀川対岸の山崎で津藩・藤堂家が新政府軍に寝返って砲撃を加え、旧幕府軍は総崩れとなった。同日夜、徳川慶喜は会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬ら少数の側近とともに大坂城を密かに脱出、軍艦・開陽丸で江戸へ撤退した。総大将を失った大坂城は 9 日に無血開城された。

歴史的影響

1. 「錦の御旗」がもたらした政治的決着

兵力比 3 対 1 で勝っていたはずの旧幕府軍が 4 日間で崩壊した最大の理由は、軍備や戦術の差ではなく「朝敵」となったことの心理的衝撃だった。淀藩・津藩の寝返りはその象徴で、近世日本における「朝廷の権威」の比重が、武家政権 260 年の蓄積を一夜にして上回ったことを示す。

2. 慶喜の戦線離脱と江戸開城への道

慶喜の大坂脱出は、旧幕府軍内部から「将軍が我々を捨てた」という不信感を呼んだ。江戸帰還後の慶喜は恭順を選び、勝海舟・西郷隆盛の会談を経て、同年 4 月 11 日に江戸城は無血開城された。鳥羽伏見の戦闘 1 回が、結果として江戸開城という大規模流血回避の伏線になった。

3. 奥羽越列藩同盟への分岐

戦闘に参加した会津藩・桑名藩は朝敵指定を受け、東北戦争・北越戦争へ転戦する。会津若松開城(同年 9 月)・桑名藩主の北越脱出を経て、奥羽越列藩同盟は崩壊するが、その戦闘で活躍した立見尚文(桑名藩・雷神隊)らは、後に明治陸軍に登用されて日清・日露戦争を戦うことになる。

4. フランス式調練を導入した旧幕府軍の限界

旧幕府軍歩兵奉行・大鳥圭介がフランス式調練で近代化していた伝習隊は、装備・訓練の水準では決して見劣りしなかった。にもかかわらず敗北したことは、近代戦が装備だけでなく「大義名分」「指揮統制」「兵站」の総合戦であることを示した。この教訓は、明治新政府の徴兵令・参謀本部制度の整備へと反映されていく。

関連する偉人とその役割

立見 尚文(桑名藩・雷神隊長)

当時 23 歳の桑名藩士。藩主・松平定敬(会津藩主・松平容保の実弟)は京都所司代を務めており、桑名藩兵は京都守護職側として戦闘に投入された。立見は雷神隊長として伏見方面で長州・薩摩藩兵と交戦。鳥羽伏見の敗戦後、桑名藩兵は北越へ転戦し、立見は朝日山争奪戦で官軍・奇兵隊の時山直八を討ち取る勇名を上げる。維新後は陸軍に登用され、日露戦争で「東洋一の用兵家」と讃えられる陸軍大将にまで昇った。

沢 太郎左衛門(幕府海軍・開陽丸副艦長)

オランダ留学組として開陽丸を回航して帰国した直後の戦いだった。沢は開陽丸副艦長として大坂湾に在泊し、戦闘そのものには直接参加していないが、6 日夜に大坂城を脱出した慶喜を開陽丸で江戸まで運ぶ任務を担った。脱出時の混乱で艦内の指揮系統が混乱したエピソードは、後の幕府海軍研究の重要史料となっている。沢自身はその後、榎本武揚の艦隊脱走に参加して函館戦争まで戦うことになる。

木村 喜毅(摂津守、旧軍艦奉行)

戦闘そのものには指揮官として参加していないが、幕府海軍を整備してきた前軍艦奉行として、開陽丸はじめ艦隊運用の制度的基盤を作った人物。鳥羽伏見後の江戸城開城時には旗本としての立場を退き、徳川家の駿河転封に従って静岡に移った。榎本武揚らが箱館戦争に向かうのと対照的に、木村は穏健派として沈黙の道を選んだ。咸臨丸艦長として太平洋を渡った経歴を持つ幕府海軍の象徴的人物であり、鳥羽伏見の敗戦を「政治的敗北」と読み取ったことが、その後の身の処し方に表れている。

大鳥 圭介(旧幕府陸軍・歩兵奉行)

鳥羽伏見の戦いには直接参加していないが、フランス式調練を導入して旧幕府軍を近代化した責任者として、戦闘前の旧幕府陸軍の編成・装備の中心にいた人物。鳥羽伏見の敗北で江戸に帰った後、江戸城開城に反対して伝習隊と新選組(土方歳三)を率いて北関東へ脱出。宇都宮城の戦い・会津若松防衛戦・箱館戦争へと転戦する。鳥羽伏見の戦いは、大鳥にとって「自軍の改革が政治状況に追いつかなかった」苦い原点となった。維新後は獄中 3 年を経て新政府に出仕、工部大学校長・駐清公使・学習院長を歴任。

関連する作品

  • 司馬遼太郎『竜馬がゆく』『峠』『燃えよ剣』 — 鳥羽伏見前夜の薩長・土佐・会津・新選組それぞれの立場を多角的に描く
  • NHK 大河ドラマ『八重の桜』(2013 年) — 会津藩側からの鳥羽伏見が描かれた
  • NHK 大河ドラマ『青天を衝け』(2021 年) — 徳川慶喜(草彅剛演)の視点から、大坂城脱出の決断が再現された

京都市伏見区の御香宮神社境内には「伏見鳥羽戦跡」の石碑があり、現在も激戦地の遺構を訪ねることができる。

参考資料

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