グイド・フルベッキ (1830-1898)の肖像
グイド・フルベッキの肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

グイド・フルベッキ

ぐいど・ふるべっき

Guido Verbeck

オランダ生まれ・アメリカ宣教師のお雇い外国人。長崎・東京で大隈重信・副島種臣ら数百人の志士に英語と西洋学を教えた「明治日本の隠れた恩師」。

生没年
出身地
オランダ・ザイスト
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
宣教師・教育者
タグ
お雇い外国人 / 宣教師 / 致遠館 / 大学南校 / 明治学院 / 旧約聖書翻訳

「明治日本の隠れた恩師」 — 数百人の志士を英語で育てた宣教師

グイド・フルベッキは、オランダに生まれ・アメリカに帰化したプロテスタント宣教師として、安政 6 年(1859 年)に長崎に来日。長崎の致遠館(佐賀藩・幕府の英学塾)・東京の大学南校(後の東京大学)で 英語・西洋学を教え、大隈重信・副島種臣・大山巌・伊藤博文・井上馨ら明治の元勲となる多数の青年志士を直接育てた、明治日本の最も影響力ある外国人教師である。

維新後の明治 2 年(1869 年)、新政府の 大学南校教頭として教育行政に関与。明治 4 年(1871 年)、岩倉使節団派遣計画の 草案を起草した(「ブリーフ・スケッチ」)とも伝わる。明治学院の設立にも関与し、旧約聖書の和訳に晩年を捧げた。

「お雇い外国人」と一括りにされる多数の外国人教師の中でも、フルベッキは 教えた日本人の顔ぶれの広さ・後年の影響の大きさで他を圧倒する。明治政府の中枢人物の多くが彼の門下生だった。

オランダ生まれ、米国宣教師としての来日

1830 年 1 月 23 日、オランダ・ユトレヒト州ザイストで生まれる。モラヴィア兄弟団(プロテスタントの一派)の家庭で育ち、ユトレヒトの工科学校で技術教育を受けた後、22 歳で アメリカ合衆国に移住(1852 年)。米国の アーバン神学校(オーバン神学校とも、ニューヨーク州)を 1859 年に卒業し、米国オランダ改革派教会の宣教師として日本に派遣された。

安政 6 年(1859 年)11 月、29 歳で 長崎に上陸。当時の日本は 修好通商条約(1858 年)で開国直後、宣教師活動は厳しく制限されていたが、フルベッキは公式には 英語・西洋学の教師として活動を始めた。

長崎・致遠館 — 大隈重信ら佐賀藩士を教える

文久元年(1861 年)頃から、フルベッキは長崎で多くの日本人を私的に指導。佐賀藩が長崎に置いた 致遠館(英学校)で公式に教師となり、大隈重信(後の早稲田大学創設者・首相)・副島種臣(外務卿)・大木喬任(司法卿)ら 佐賀の七賢人級の青年たちが彼の英語授業を受けた。

長州の 伊藤博文・井上馨、薩摩の 大山巌・西郷従道、その他多数の藩士・浪人がフルベッキの長崎時代に教えを受けたと伝わる。フルベッキ私邸での座談会は、幕末の志士の知識ネットワークを作るハブの役割を果たした。

有名な 「フルベッキ群像写真」(慶応 3-4 年頃、佐賀藩士たちとフルベッキが集合した一枚)は、明治維新前夜の若き志士たちの貴重な記録として、現在も歴史教科書に掲載される(ただし写真の被写体特定には学術的議論あり)。

明治政府の大学南校教頭、岩倉使節団の発案者

明治 2 年(1869 年)、新政府は明治政府の 大学南校(明治 10 年に東京大学に発展)の 教頭(事実上の運営責任者)としてフルベッキを招聘した。教える内容を 「英学・法律・経済」などに広げ、近代日本の高等教育の出発点を整えた。

明治 4 年(1871 年)、フルベッキは 「ブリーフ・スケッチ(Brief Sketch)」と呼ばれる 岩倉使節団派遣の草案を起草、岩倉具視・大久保利通・伊藤博文らに提示したとされる。岩倉使節団(1871-73 年)は、米欧 12 ヶ国を 1 年 10 ヶ月かけて視察した明治日本最大の政策ミッションで、その発想の原点にフルベッキが関わった可能性が高い。

明治学院の創設、旧約聖書の翻訳

明治 6 年(1873 年)、明治政府の キリスト教禁制高札が事実上撤廃され、フルベッキは公式に 宣教師としての活動を再開できるようになる。明治 16 年(1883 年)、東京一致神学校(後の明治学院神学部)の設立に参加。

晩年は 聖書和訳事業に専念。新約聖書はすでに明治 13 年(1880 年)に完成していたが、旧約聖書の和訳は難航しており、フルベッキは 聖書翻訳委員会の中心メンバーとして約 10 年にわたり貢献。明治 20 年(1887 年)、旧約聖書の和訳が完成。日本で初めて 聖書全巻の日本語訳が成立した。これは現在の 「文語訳聖書」の原型である。

明治 31 年 3 月 10 日、東京で逝去

明治 31 年(1898 年)3 月 10 日、東京で死去。享年 68。米国オランダ改革派教会・東京一致神学校を中心に追悼式が営まれた。

明治政府は 教育・近代化への貢献を讃え、フルベッキの埋葬を 青山霊園に許可した。お雇い外国人として特例的に青山霊園に埋葬された宣教師として、彼の墓は今も外国人区画に静かに残っている。

親族の著名人

逸話・エピソード

「無国籍」のお雇い外国人

フルベッキはオランダ生まれだが米国に帰化して来日、しかし米国市民権の手続き書類の不備で一時的に法律上「無国籍」状態だったと伝わる。明治政府への顧問契約時、書類の国籍欄は空欄のまま処理されたという珍しい事例で、後年「私はオランダ人でも米国人でもなく、日本の教師であった」と語ったと伝わる。

大隈重信との生涯の友情

長崎の致遠館でフルベッキの英語授業を受けた大隈重信は、維新後も終生「ブルベッキ先生」と呼んで尊敬した。明治後期、大隈は早稲田大学(東京専門学校)を創設する際、フルベッキの「実学を以て国を立てる」という教えを引用し、自校の教育方針に重ねたと伝わる。明治の教育者ネットワークの源流に、長崎時代のこの英語教師がいた。

旧約聖書翻訳の机

晩年、フルベッキは東京・築地の小さな書斎にこもり、毎日早朝から深夜まで聖書翻訳に没頭した。日本語の文体感覚を磨くため、漢学者や国学者を呼んで助言を求め、訳語一つに何日もかけたという。「文語訳聖書」の格調高い日本語は、こうした 10 年の積み重ねの産物である。

青山霊園に眠る

フルベッキの墓は、青山霊園の 外国人区画にあり、墓石にはアルファベットで “Guido Herman Fridolin Verbeck” と本名が刻まれている。「明治政府の中枢人物の多くを育てた外国人教師」が、その教え子たちが眠る同じ青山霊園に眠ることになった配置は、明治日本と西洋の出会いを最も象徴的に物語る。

大隈重信(谷中霊園)・伊藤博文(品川区大井公園)らは別の地に眠るが、副島種臣・大山巌・井上馨ら教え子の一部は青山霊園に眠っており、フルベッキは没後も自分が育てた青年たちと同じ霊園で安らかに眠ることになった。

参考資料

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