ゴットフリート・ワグネル
ごっとふりーと・わぐねる
Gottfried Wagener
明治政府お雇い外国人のドイツ人化学者。有田焼・京焼・ガラス・七宝の近代化を導き「日本陶磁業の恩人」と呼ばれた。
日本陶磁業の恩人 — お雇い外国人ワグネル
ゴットフリート・ワグネルは、明治政府が招いたドイツ人お雇い外国人の一人で、化学者・技術指導者として陶磁器・ガラス・七宝の近代化に深く関わり「日本陶磁業の恩人」と呼ばれる人物である。ハノーファー王国(現・ドイツ)で生まれ、ゲッティンゲン大学で数学・物理学の学位を得たが、長崎での技術指導の機会を得て1868年(明治元年)に来日。以後、24年にわたり日本に滞在し、佐賀藩有田、京都府舎密局、東京開成学校、東京職工学校(現・東京工業大学)で化学・窯業を教えた。
ウィーン万国博覧会(1873年)、フィラデルフィア万博(1876年)の御用掛を務め、日本陶磁器を世界市場に売り出す道筋を作り、その教えを受けた京都・有田・東京の職人たちが、近代日本の輸出工芸を支えた。1892年、東京で病没、青山霊園の外国人墓地区域に葬られた。
数学者から窯業技術者へ
1831年7月5日、ドイツ・ハノーファー王国のハノーファーで生まれる。ゲッティンゲン大学で数学・物理学を学び、24歳で学位取得。ドイツ国内で工場経営に関わったが事業に失敗。1867年(慶応3年)、米国経由で長崎に渡り、石鹸製造の指導を行ったのが日本との縁の始まりとなった。
明治元年(1868年)、佐賀藩の招聘で有田に赴任。藩窯であった肥前磁器の生産技術を欧州式に改良するため、燃料効率の高い石炭窯の導入、コバルト顔料の精製、温度管理の理論化を指導した。「有田の素焼きを世界の市場に出す」というワグネルの問題意識は、伊万里焼の海外輸出戦略の原型となる。
ウィーン万博と京都舎密局
明治4年(1871年)、政府の招きで東京に移り、ウィーン万国博覧会(1873年)の御用掛として、出品物の選定・梱包・輸送計画を主導。維新後初の本格的な日本工芸の世界デビューであった。
万博後は京都府舎密局(化学技術研究機関)の教師となり、京焼の改良、ガラス・七宝の製造技術指導に当たる。並河靖之の有線七宝、ウィーン万博出品から始まった京都製品の海外進出は、いずれもワグネルの指導と無縁ではない。
東京開成学校・東京職工学校での教育
明治10年(1877年)以降は東京に戻り、東京開成学校(後の東京帝国大学)、東京職工学校(後の東京工業大学)の教師として、化学・窯業の体系的な教育を担当した。
ワグネルの教え子からは、近代日本の窯業界・化学工業界を担う技術者が多く育った。京都の塩野義三郎(七宝)、東京の藤山雷太(化学工業)らがその名を挙げられる。「研究所と現場と教室」を一体として運営するワグネルの教育観は、明治の殖産興業政策の中で、後の工業学校制度の原型となった。
旭日小綬章 — 日本政府からの感謝
明治25年(1892年)11月8日、東京で病没。享年61。死の直前、日本政府は彼に旭日小綬章を授け、24年にわたる技術指導への感謝を示した。
ワグネルは独身のまま生涯を日本で終え、遺骸は青山霊園の外国人墓地区域に葬られた。墓碑にはドイツ語で「Dr. Gottfried Wagener」と刻まれ、現在も東京工業大学・東京大学・有田町などの関係者が訪れる。
逸話・エピソード
「旭焼」の挑戦
ワグネルは東京で「旭焼(あさひやき)」と称する独自の陶磁器を試作した。和洋折衷の意匠と化学的に計算された釉薬を組み合わせ、輸出品として欧米市場に売り込む構想で、明治 17 年(1884 年)頃に銀座で旭焼工場を構えた。事業としては成功しなかったが、釉薬の科学的処方を体系化した点で日本の窯業史に痕跡を残し、現在も陶磁研究者に「ワグネル釉」として知られる。
独身で生涯日本に
ワグネルは生涯独身で、ドイツの家族とも疎遠なまま日本に骨を埋めた。「私の家族はこの国の弟子たちである」と晩年に語ったと伝わり、教え子だった東京職工学校(現・東京工業大学)の卒業生たちが葬儀を取り仕切った。明治のお雇い外国人の中で、契約期間を終えて帰国するのではなく、自ら日本に残り続けた数少ない一人である。
青山霊園に眠る
ワグネルの墓は、青山霊園 1種ロ7号付近の外国人墓地区域にある。同じ青山霊園にはお雇い外国人として、キヨッソーネ(イタリア・印刷技術)、フルベッキ(オランダ→米国・宣教師教育者)、ジョセフ・ヒコ(米国・新聞)、デュ・ブスケ(フランス・軍事顧問)らが眠る。明治国家を支えた多国籍の頭脳が、青山の一画に集まっている。
数学者として大学を出ながら、日本では化学者・窯業技術者として生きたワグネル — その柔軟さと、24年を日本で過ごす忍耐は、明治殖産興業の最も静かな原動力の一つだった。



