明治天皇崩御
明治天皇が六十歳で崩御し、明治四十五年が大正元年に改元。維新と近代化を象徴した在位四十五年の時代が終焉した。続く九月の御大喪に合わせて乃木希典夫妻が殉死し、明治という時代の精神的な区切りを国民に深く刻んだ。
維新を担った帝の崩御と時代の終焉
明治四十五年(一九一二)七月三十日午前零時四十三分、明治天皇は皇居内で糖尿病性尿毒症のため六十歳の生涯を閉じた。慶応二年(一八六七)に十四歳で践祚し、王政復古・戊辰戦争・廃藩置県・大日本帝国憲法発布・日清日露戦争を経て、近代日本の象徴となった在位四十五年の時代がここに終わった。同日午後、皇太子嘉仁親王が践祚し大正と改元された。死の報は号外で全国に伝えられ、皇居前広場には連日数万の国民が集まって遥拝した。慶喜が政権を返した時に十五歳だった少年帝が、世界の五大国の一つとなった近代国家を後継者に手渡しての崩御であった。
背景 — 明治末期の社会変容と帝の象徴性
明治末期の日本は日清・日露の戦勝を経て国際社会に地位を確立する一方、国内では資本主義の発展による格差拡大、社会主義運動の台頭、地方の疲弊が進行していた。一九一〇年の大逆事件と幸徳秋水ら処刑、韓国併合、不平等条約改正の完成(一九一一)など、明治の最終段階は明暗の交錯する時期であった。その中で天皇は政治の前面に立つことは少なかったものの、国民にとって「明治という時代そのものの体現者」として絶大な象徴的存在となっていた。天皇崩御は単なる元首交代ではなく、一つの時代精神の終わりを意味した。
経過 — 御大喪と乃木希典夫妻の殉死
九月十三日、宮中で大喪の儀が執り行われ、霊柩は二重橋を出て皇居前広場・桜田門・赤坂見附を経由して青山の葬場殿へ向かった。沿道には数十万の国民が黙礼して送り、新聞は「世紀の葬列」と報じた。その葬列が青山に到着して間もない同日夜八時頃、赤坂の自邸で乃木希典大将と妻静子が殉死した。乃木は明治天皇の御前で割腹し、「先帝に殉ず」との遺書を残した。乃木の殉死は国民に衝撃を与え、夏目漱石『こころ』、森鷗外『興津弥五右衛門の遺書』など多くの文学作品に深い影響を残し、明治の終焉を象徴する事件として永く記憶された。
影響 — 「明治」という時代区分の確立
明治天皇の崩御と乃木殉死は、近代日本において初めて「時代」を区切る集合的な体験となった。一世一元の制によって元号と天皇の生涯が一対一対応する仕組みは明治期に確立されたが、それが現実の喪失体験として国民に共有されたのはこの時が初めてであった。本霊園に眠る乃木希典・静子夫妻はこの大喪の日に葬場殿のほど近い赤坂の自邸で殉死し、明治という時代の終焉を最も劇的な形で国民に示した一場面となった。