壬午事変(壬午軍乱)
朝鮮王朝の首都漢城で、給与未払いに憤激した旧式軍兵士が大院君に擁立されて反乱。日本公使館が焼かれ堀本礼造ら日本人軍事顧問が殺害された。日本は花房義質公使を済物浦条約交渉に派遣し、朝鮮半島への軍事介入の起点となった。
漢城で日本公使館が焼かれた日
明治十五年(一八八二)七月二十三日、李氏朝鮮の首都漢城で旧式軍の兵士が反乱を起こした。給与の十三か月分未払いと、開化政策に伴う新式軍(別技軍)優遇への憤激が引き金であった。反乱兵は王宮を襲い、開化派の高官を殺害、さらに日本公使館を焼き打ちにして堀本礼造陸軍工兵少尉ら日本人軍事顧問十三名を殺害した。花房義質公使は危うく長崎へ脱出。閔妃は宮中から逃れ、保守派の領袖である大院君(高宗の実父)が反乱兵に擁立されて十年ぶりに権力を奪取した。日清両国がともに朝鮮へ出兵し、朝鮮半島が日清対立の主舞台となる構図の出発点となる事件であった。
背景 — 開化派と保守派の対立、別技軍編成
李氏朝鮮では一八七六年の日朝修好条規(江華島条約)以降、開化派(金玉均ら)が日本の明治維新に学んで近代化を推進していた。一八八一年、福沢諭吉門下の日本人将校・堀本礼造を招いて新式軍「別技軍」を編成、近代兵学を導入した。一方、伝統的な旧式軍の兵士は給与未払いと別技軍優遇に強い不満を抱いていた。さらに一八八二年は朝鮮全土が干害と飢饉に見舞われ、社会全体が不安定化していた。大院君は失脚後も保守派の領袖として復権の機会を窺っており、不満の蓄積を政治利用する周到な準備があった。
経過 — 日清両軍の出兵と済物浦条約
事変後、日本は陸軍歩兵一個大隊と軍艦四隻を、清国は北洋艦隊と陸軍三千を朝鮮へ派遣。清軍は迅速に大院君を捕縛して天津に幽閉し、閔氏一族を復権させた。日本は花房公使が陸軍を率いて漢城に入り、八月三十日に済物浦条約を締結。朝鮮政府は日本人犠牲者への賠償金五十万円、加害者処罰、公使館護衛のための日本軍駐留を約束した。日本は朝鮮に軍事力を駐留させる権利を初めて獲得した一方、清は宗主国としての影響力を再確立。日清両国が朝鮮を巡って衝突する構造が固定化された。
影響 — 二年後の甲申政変・十二年後の日清戦争へ
壬午事変は表面的には大院君の失脚と閔氏政権の復活で収束したが、日清両国の朝鮮介入競争を激化させ、二年後の甲申政変(一八八四年)、十二年後の日清戦争(一八九四年)へと連なる長い対立の起点となった。漢城に駐留することになった日本軍は、以後十三年にわたって朝鮮政治への直接介入を続け、その帰結として一八九五年の乙未事変(閔妃暗殺事件)が起きる。壬午事変はその長い悲劇の最初の頁であった。