金 玉均 (1851-1894)の肖像
金 玉均の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

金 玉均

きん ぎょくきん

Kim Ok-gyun

朝鮮王朝末期の開化派指導者。日本に学んで甲申政変(1884)を主導するも失敗、日本に亡命。10 年後上海で暗殺。頭山満・福澤諭吉らが支援した朝鮮近代化の象徴的人物。

生没年
出身地
朝鮮国忠清南道公州(現・大韓民国忠清南道公州市)
死没地
上海(暗殺)
時代
明治
役職
開化派指導者
タグ
朝鮮開化派 / 甲申政変 / 上海暗殺 / 福澤諭吉門下 / 頭山満の庇護

朝鮮開化派の指導者 — 甲申政変の失敗と上海暗殺

金玉均(キム・オッキュン)は、朝鮮王朝末期の 開化派の中心人物として、明治 17 年(1884 年)に 甲申政変(クーデター)を起こし、わずか 三日天下で失敗。日本に亡命して 10 年を過ごした後、上海で暗殺された朝鮮近代化運動の最も悲劇的な指導者である。

1882 年から 福澤諭吉(慶應義塾)の知遇を得て日本に留学、明治日本の近代化に強い影響を受けた。日本側の支援者は 福澤諭吉・後藤象二郎頭山満ら多岐にわたり、特に 頭山満(青山霊園 1種ロ8号で既登録)は東京で金玉均を匿い、生活費を支援した。

甲申政変(1884 年 12 月 4-7 日)は、閔氏政権を打倒して 朝鮮の近代化・親日路線を確立しようとしたクーデター。金玉均・朴泳孝・洪英植・徐光範・徐載弼らが日本公使館の支援を得て決行したが、清軍の介入で 3 日で崩壊。金玉均は日本に亡命した。

10 年後の明治 27 年(1894 年)3 月 28 日、上海の東和洋行ホテルで、朝鮮政府の刺客 洪鍾宇に銃撃され死去。享年 43。遺体は朝鮮に運ばれて凌遅刑(死後の極刑)にされたが、日本に残った遺髪・遺品は 青山霊園の外国人区画に埋葬された。

忠清南道の名門両班から、官界へ

朝鮮哲宗 2 年 1 月 23 日(陽暦 1851 年 2 月 23 日)、朝鮮国忠清南道公州(現・大韓民国忠清南道公州市)に 両班(ヤンバン)の家系・安東金氏の一族として生まれる。安東金氏は朝鮮王朝末期に 勢道政治の中心を担った名門の一つ。

幼くして同族・金炳基の養子となり、ソウルに移住。科挙(朝鮮の高等文官試験)に高得点で合格(1872 年、22 歳)、官界入りを果たした。戸曹参議(財政官)などを歴任。

明治 15 年(1882 年)、日本留学 — 福澤諭吉との出会い

明治 15 年(1882 年)、朝鮮政府の使節として 来日。当時、朝鮮国内では「開化(近代化推進)」と「守旧(現状維持)」の党派対立が激化しており、金玉均は 開化派(独立党)の中心人物として位置づけられていた。

来日中、福澤諭吉と親交を結ぶ。福澤の 『時事新報』は 「朝鮮の独立と近代化」を強く支持し、金玉均は福澤を通じて 後藤象二郎・伊藤博文・井上馨ら明治政府の要人と接触した。

慶應義塾は 朝鮮初の日本留学生(兪吉濬ら)を受け入れ、朝鮮最初の新聞「漢城旬報」(1883 年創刊)の発行を支援。明治日本にとって朝鮮は 「日本の独立を守るための同盟国」(福澤の 「脱亜論」前の認識)であり、金玉均は 日朝近代化同盟の象徴であった。

明治 17 年 12 月、甲申政変 — 三日天下

明治 17 年(1884 年)12 月 4 日、金玉均ら開化派は、ソウル郵政局開局祝賀宴を口実に クーデターを決行。閔氏一族の高官たちを暗殺し、朝鮮国王 高宗を確保、親日的な開化派政権を樹立した。

新政府は 「政治綱領 14 条」を発表 — 清からの完全独立、両班特権の廃止、近代官制への移行、平等社会の樹立 — を掲げた。日本公使 竹添進一郎と日本軍 150 名が新政府を護衛した。

しかし 12 月 6 日、清国軍 袁世凱(後の中華民国大総統)が 1,500 の兵を率いて王宮に突入。日本軍は撤退、新政府はわずか 3 日で崩壊した。洪英植は宮中で殺害、金玉均・朴泳孝・徐載弼らは日本公使館に逃げ込み、仁川から日本商船で 長崎に脱出した。

日本亡命の 10 年 — 頭山満・福澤諭吉の庇護

明治 17 年 12 月、日本亡命。明治政府は朝鮮政府からの 金玉均引き渡し要求を拒否、しかし国際関係を考慮して金玉均を 小笠原諸島・北海道に流謫扱いで隔離した時期もある。

明治 20 年代以降、東京の頭山満邸を拠点に活動。頭山(玄洋社総帥、青山霊園 1種ロ8号で既登録)と 宮崎滔天・大井憲太郎らが資金援助。金玉均は 岩田秋作(岩田三七作)という日本名を名乗り、暗殺者からの隠れ家を点々と移しながら、朝鮮再起の機会を待った。

朝鮮政府はこの 10 年間で 複数の暗殺者を日本に送り込んだが、未遂に終わった。

明治 27 年 3 月 28 日、上海で暗殺

明治 27 年(1894 年)2 月、金玉均は 「李鴻章(清国の李鴻章首相)と会談して、清朝による開化政策推進を説得する」目的で、密かに上海に渡ることを決意。日本側支援者の多くは「罠だ、行くな」と止めたが、金玉均は決行した。

3 月 27 日、上海到着。同行者の一人 洪鍾宇(朝鮮政府が送り込んだ刺客)が、3 月 28 日、上海の東和洋行ホテル 2 階の客室で金玉均に拳銃 3 発を撃ち込み、即死させた。享年 43。

遺体は清国当局から朝鮮政府に引き渡され、ソウルで 凌遅刑(死体を切り刻む極刑)に処された。朝鮮政府の 「金玉均は売国奴・反逆者」という公式立場を象徴する処刑であった。

しかし日本では、福澤諭吉・頭山満・宮崎滔天らが追悼会を催し、東京・浅草本願寺で 大規模な葬儀が営まれた。遺髪・遺品は東京・真浄寺(文京区)と 青山霊園の外国人区画に分けて埋葬された。

その後の朝鮮独立運動への影響

金玉均の死は、結果的に 日清戦争(1894 年 7-9 月開戦)の直接の発火点の一つとなった。金玉均暗殺事件の処理を巡って、日清両国の朝鮮への介入が激化したためである。

朝鮮独立運動史において金玉均は、「朝鮮自力近代化を試みた最初の指導者」として現代韓国でも評価されている(1894 年に処刑された後、1910 年の韓日併合期に名誉回復、戦後の韓国でも歴史的偉人として位置づけ)。

親族・関係者

逸話・エピソード

福澤諭吉の涙 — 「亡命者ではない、同志である」

金玉均が日本亡命後、福澤諭吉は『時事新報』紙上で繰り返し「彼は犯罪者ではない、朝鮮近代化の同志である」と擁護論を展開した。金玉均が上海で暗殺された報せを聞いた福澤は、慶應義塾の朝会で「私は今日、東洋の最大の友を失った」と一言だけ述べ、涙を見せたと当時の塾生が記録している。福澤の「脱亜論」(1885 年)は甲申政変失敗の直後に書かれた論説で、金玉均への絶望と表裏一体の論考だったと現代の朝鮮近代化研究者は読み解いている。

頭山満の隠れ家ネットワーク

亡命中の金玉均は朝鮮政府が送り込む刺客から逃れるため、頭山満率いる玄洋社が東京・横浜・小笠原・北海道に張り巡らした隠れ家ネットワークを転々と移動した。頭山自身は金玉均を「義の人」と称し、自宅の離れに匿った時期もあった。「あの男に手を出す者は俺の屍を越えてからにせよ」と頭山が啖呵を切ったと、玄洋社員の手記に残る。10 年間の亡命生活で金玉均が生き延びたのは、頭山の庇護があってこそだった。

上海行きを止めた福澤・止められなかった本人

明治 27 年(1894 年)2 月、金玉均が「李鴻章と会談する」と上海行きを決めた際、福澤諭吉・頭山満・宮崎滔天らはほぼ全員が「罠だ、絶対に行くな」と引き止めた。だが金玉均は「もはや日本での 10 年は限界だ。清朝を動かせれば朝鮮は救える」と決行を譲らなかった。出立前夜、福澤邸を訪れた金玉均は「もし帰らなかったら、我が同志をよろしく頼む」と一言残して去ったと、福澤の家族が証言している。その別れが、彼の最後の日本滞在となった。

青山霊園に眠る

金玉均の 遺髪・遺品は、青山霊園の 外国人区画に埋葬されている。墓石にはハングルと漢字で名が刻まれている。

朝鮮の近代化を志して敗れた男が、その夢を支援した日本人 — 頭山満(1種ロ8号)・後藤象二郎(1種イ13号) — と同じ青山霊園に眠っている配置は、日朝近代史の最も切ない記念碑となった。

墓所の位置

関与した事件

参考資料

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