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甲申政変


朝鮮・京城で金玉均ら開化派が清国保守派に対しクーデターを決行、わずか 3 日で失敗。金玉均は日本に亡命、後に上海で暗殺される。

Kim Ok-gyun
Kim Ok-gyun Unknown authorUnknown author / Wikimedia Commons / Public domain
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政変

朝鮮近代化を目指した「三日天下」

甲申政変(こうしんせいへん)は、明治 17 年(1884 年)12 月 4 日から 7 日にかけて、朝鮮王朝の首都・漢城(現・ソウル)で開化派の金玉均・朴泳孝・洪英植・徐光範・徐載弼らが起こしたクーデターである。閔氏一族の保守派政権を打倒し、清国からの独立と近代化を一気に推し進めようとした政変は、清国軍の介入により三日で崩壊。日本公使館の支援も水泡に帰し、首謀者の大半は日本へ亡命した。

東アジア近代史において、甲申政変は朝鮮自身による最初の本格的な近代化試みであり、同時にその挫折を通じて朝鮮半島が清・日・露の角逐の場へと転落していく分岐点でもあった。10 年後の日清戦争(1894 年)もまた、この政変の延長線上に位置づけられる。

背景 — 壬午軍乱から開化派の決断へ

19 世紀後半の朝鮮王朝は、宗主国・清の影響下で旧来の体制を維持する閔氏一族の保守派と、日本の明治維新を範に近代化を志向する開化派が対立していた。明治 9 年(1876 年)の日朝修好条規以降、朝鮮は徐々に開国の道を歩んでいたが、政府中枢は依然として閔妃を中心とする保守派が掌握していた。

明治 15 年(1882 年)の壬午軍乱では、近代化政策に反発した旧軍兵士が暴動を起こし、日本公使館が焼かれた。乱を鎮圧したのは清国軍であり、以後、袁世凱率いる清国軍が漢城に常駐して内政に深く介入する。閔氏政権は完全に清の保護下に入り、開化派は政治的に孤立した。

金玉均はこの間、日本との交渉のため明治 15-16 年に渡日し、福澤諭吉ら明治の啓蒙知識人と親交を結ぶ。福澤の主宰する『時事新報』は朝鮮の独立と開化を熱烈に支持し、後藤象二郎・井上馨・伊藤博文ら明治政府要人とも接触した金玉均は、日本の支援を背景に一気に政権を掌握する構想を温めた。明治 17 年、清仏戦争で清国の主力がベトナム方面に張り付けられたことを好機とみて、開化派は決行を決断する。

12 月 4 日夜 — 郵政局祝賀宴

明治 17 年(1884 年)12 月 4 日夜、漢城・郵征局(郵便制度設立を祝う官庁)の開局祝賀宴。各国公使・朝鮮高官が集まる会場の隣家に放火がなされ、混乱に乗じて開化派の壮士たちが脱出した閔氏一族の高官・閔泳翊らを襲撃した。閔泳翊は重傷を負って米国人医師アレンの手で一命を取り留める。

その夜、金玉均らは王宮・景福宮に走り、国王高宗に「清軍が叛乱を起こした」と告げて王を景祐宮へ移御させ、日本公使・竹添進一郎率いる公使館員と日本守備兵 150 名を護衛として呼び寄せた。同じ夜、開化派は閔台鎬・閔泳穆・趙寧夏・李祖淵・韓圭稷・尹泰駿ら閔氏政権の重臣を相次いで暗殺した。

12 月 5 日、開化派による新政権が樹立される。洪英植が領議政(首相)、朴泳孝が前後営使、徐光範が左右営使、金玉均が戸曹参判(財政担当)に就任。同日深夜、新政権は「政綱十四条」を起草し、清からの完全独立、両班特権の廃止、近代官制の導入、税制改革、平等社会の建設を掲げた。

12 月 6 日午後、袁世凱が清国軍 1,500 を率いて景祐宮に突入。日本守備兵は数で大きく劣り、抵抗を続けた末に撤退を選択。竹添公使は日本公使館に火を放ち、金玉均・朴泳孝・徐光範・徐載弼ら数名を伴って仁川へ脱出した。宮中に残った洪英植・朴泳教ら 7 名は清兵に捕らえられ、その場で殺害された。新政権はわずか三日で崩壊した。

12 月 13 日、金玉均一行を乗せた日本商船・千歳丸が長崎に到着。10 年に及ぶ亡命生活の始まりであった。

歴史的影響

  1. 朝鮮の近代化路線の頓挫 — 開化派の主要メンバーを失った朝鮮は、以後 10 年以上にわたって閔氏政権と清国の保護下にとどまり、自力での近代化機会を逸した。1894 年の甲午改革まで本格的な制度改革は再開しない。

  2. 日清の朝鮮覇権争いの公式化 — 政変処理のため明治 18 年(1885 年)4 月、伊藤博文と李鴻章が天津条約を締結。両国軍の朝鮮撤兵と、再派兵時の事前通告を取り決めた。この条項は皮肉にも 1894 年の東学党の乱で日清両軍が同時に派兵する根拠となり、日清戦争の制度的起点となる。

  3. 福澤諭吉の「脱亜論」 — 政変の挫折を目の当たりにした福澤は明治 18 年(1885 年)3 月、『時事新報』に「脱亜論」を発表。「アジア東方の悪友を謝絶する」という有名な一節は、甲申政変の失敗を直接の動機として書かれたものとされる。日本の対アジア観の冷却が、ここから始まる。

  4. 金玉均の悲劇と上海暗殺 — 10 年後の明治 27 年(1894 年)3 月、金玉均は上海で朝鮮政府の刺客・洪鍾宇に銃殺される。遺体は朝鮮へ送られ凌遅刑に処された。この事件と東学党の乱が、同年 7 月の日清戦争開戦の直接の引き金となる。

関連する偉人とその役割

金 玉均(朝鮮開化派指導者)

甲申政変の中心人物。政変決行時 33 歳、戸曹参判として新政権の財政を担当した。清軍突入後、日本公使館を経由して長崎に脱出。以後 10 年間、頭山満・福澤諭吉・宮崎滔天らの庇護を受けて東京を中心に潜伏生活を送り、明治 27 年(1894 年)上海・東和洋行ホテルで暗殺された。享年 43。遺髪・遺品は青山霊園の外国人区画に埋葬されている。朝鮮自力近代化を試みた最初の指導者として、現代韓国でも歴史的偉人と評価されている。

関連する作品

  • 司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』ほか短編で甲申政変前後の朝鮮情勢に触れている
  • 角田房子『閔妃暗殺』(新潮社、1988 年) — 乙未事変が中心だが、その背景として甲申政変の挫折が詳細に描かれる
  • 韓国ドラマ『朝鮮ガンマン』(2014 年、KBS)では甲申政変前後の漢城が舞台として描かれる

参考資料

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