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教育勅語発布


明治天皇による教育の基本方針を示す勅語。井上毅・元田永孚が起草、忠君愛国・孝悌信義を中心に据えた戦前日本の教育規範の中核となった。

A copy of the Imperial Rescript on Education distributed to various schools in Japan by the Department of Education
A copy of the Imperial Rescript on Education distributed to various schools in Japan by the Department of Education Calligraphy: unknownText: Emperor Meiji (明治天皇, 1852 – 1912) / Wikimedia Commons / Public domain
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社会

戦前日本の道徳教育の中核として

教育ニ関スル勅語(教育勅語)は、明治 23 年(1890 年)10 月 30 日、明治天皇が山県有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に下賜した勅語である。「忠君愛国」「孝悌信義」を中心とする 12 の徳目を国民の遵守すべき道徳規範として示し、以後昭和 23 年(1948 年)に国会で排除・失効決議されるまで、約 58 年間にわたり戦前日本の道徳教育・国家観の中核として機能した。

勅語そのものは 315 字の漢文調文章で、起草は法制官僚・井上毅と、儒学者で天皇の侍講を務めた元田永孚が中心となって担当した。明治 22 年(1889 年)の大日本帝国憲法発布、明治 23 年の第 1 回帝国議会召集と並んで、明治国家の精神的基盤を完成させた文書として位置づけられる。

背景 — 学校令以後の道徳教育の空白

明治 19 年(1886 年)、初代文部大臣・森有礼が四つの学校令(帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令)を立て続けに発令し、近代日本の学校制度の制度的骨格が完成した。森の方針は欧米型の合理主義教育を基調とし、国家のための実用的な人材育成を重視するもので、伝統的な儒教道徳とは距離を置いていた。

しかし森は明治 22 年(1889 年)2 月 11 日、憲法発布の朝に国粋主義者・西野文太郎の凶刃に倒れる。森の死後、政府内では「西洋化に傾きすぎた教育を是正し、国民道徳の精神的支柱を立てるべき」という議論が高まった。明治 23 年(1890 年)2 月、山県有朋内閣で開かれた地方長官会議は、徳育(道徳教育)の方針確立を政府に建議。これを受けて文部大臣・芳川顕正が中心となり、勅語起草作業が本格化する。

起草を実際に担ったのは、法制官僚として伊藤博文の信任を得ていた井上毅と、明治天皇の侍講で儒学に通じた元田永孚の二人だった。井上は近代法治国家の論理を踏まえつつ宗教色を排し、元田は儒教的徳目の核心を盛り込む役割を果たした。両者の文案を山県・芳川が調整し、最終的に明治天皇の裁可を経て、10 月 30 日に下賜された。

12 徳目と勅語の構造

教育勅語は冒頭で「皇祖皇宗」による国体の由来を述べた後、国民が遵守すべき 12 の徳目を列挙する。父母への孝、兄弟の友愛、夫婦の和、朋友の信、博愛、修学、知能の啓発、徳器の成就、公益の追求、義勇奉公、そして「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」で結ばれる、忠君愛国を頂点とする徳目体系である。

文末は「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」と結び、勅語の道徳規範が皇祖皇宗以来の伝統に根ざすものであることを宣言した。

謄本は全国の小学校・中学校・師範学校・高等学校に下付され、奉安殿に厳重に保管されることとなった。紀元節・天長節・明治節・元旦の四大節祝日には校長が白手袋で謄本を取り出し、全校生徒の前で奉読する儀式が定着する。明治末期から昭和 20 年(1945 年)まで、日本の児童・生徒は教育勅語の暗唱を学校生活の重要な一部として経験した。

歴史的影響

  1. 国家道徳の制度化 — 教育勅語は戦前日本の国民道徳の正典として、学校教育・徴兵制・公務員制度の精神的基盤となった。修身科の教科書はすべて勅語の徳目を解説する形式で編纂された。

  2. 内村鑑三不敬事件 — 明治 24 年(1891 年)1 月、第一高等中学校嘱託教員のキリスト教徒・内村鑑三が奉読式で勅語の天皇親署に最敬礼しなかったとされ社会問題化。井上哲次郎の『教育と宗教の衝突』(1893 年)など、キリスト教と国家神道の対立を象徴する論争に発展した。

  3. 軍人勅諭との対をなす国民道徳体系 — 明治 15 年(1882 年)の軍人勅諭が軍人の倫理規範を、教育勅語が一般国民の道徳規範を定める形で、戦前日本の精神的二重構造が完成。両者は太平洋戦争期まで日本人の倫理意識を強く規定し続けた。

  4. 1948 年の排除・失効決議 — 敗戦後、占領下の昭和 23 年(1948 年)6 月 19 日、衆参両院でそれぞれ排除・失効確認決議が採択され、教育勅語は公式に効力を失った。代わって日本国憲法と教育基本法(1947 年)が戦後教育の基本原理となる。

関連する偉人とその役割

森 有礼(初代文部大臣・教育勅語以前の制度設計者)

教育勅語の発布は明治 23 年(1890 年)10 月 30 日であり、その時点で森有礼はすでに 1 年 8 か月前に没していた(明治 22 年 2 月 12 日死去、享年 41)。したがって森が教育勅語そのものに直接関与した事実はなく、起草の中心は井上毅と元田永孚である。

しかし森が明治 18-22 年に文部大臣として整備した学校令体系(帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令)は、教育勅語の謄本が下付され奉読されるための制度的基盤そのものだった。森の学校制度がなければ、勅語の精神を全国の児童・生徒に均質に届けることはできなかった。

また森自身は明六社の啓蒙思想家として欧米合理主義に傾倒し、教育勅語の儒教的徳目とは方向性を異にしていた。森の死後、政府が「西洋化偏重を是正する道徳教育」を求めた経緯を踏まえれば、森は教育勅語が編まれた精神史的前提を作った先駆者であり、同時にその発布の動機となった「徳育の空白」を象徴する人物でもある。本霊園 1種イ1号12側に眠る。

関連する作品

  • 海後宗臣『教育勅語成立史の研究』(東京大学出版会) — 起草過程の一次史料分析として今なお基本文献
  • 山住正己『教育勅語』(朝日新聞社) — 起草から戦後排除までを通史で論じる
  • 司馬遼太郎『この国のかたち』(文藝春秋) — 教育勅語と戦前日本人の精神構造を断章で論じる
  • NHK 大河ドラマ『春の波涛』(1985 年)では森有礼の死を起点に教育勅語前史が描かれる

参考資料

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