大日本帝国憲法発布
明治天皇により大日本帝国憲法が発布。アジア初の近代的成文憲法で、第2代総理大臣・黒田清隆の在任中に成し遂げられた。
アジア初の近代成文憲法
大日本帝国憲法発布は、明治 22 年(1889 年)2 月 11 日紀元節の日、皇居正殿で挙行された憲法授受の式典である。明治天皇から第 2 代内閣総理大臣・黒田清隆へ憲法が下付された。
アジア初の近代的成文憲法として世界に発信され、明治日本が「専制国家から立憲国家へ」の段階に進んだことを宣言する出来事だった。同時に、発布当日朝に文部大臣・森有礼が刺殺されるという血の事件も起きており、近代化に伴う社会の緊張が凝縮された一日でもあった。
背景 — 岩倉使節団からの 17 年
憲法制定の道筋は、明治 4-6 年(1871-73 年)の岩倉使節団に遡る。米欧視察で各国の制度を学んだ大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らは、「日本にも近代的な政治体制が必要」と確信して帰国した。中でもプロイセン宰相ビスマルクとの会見が、後の憲法構想に決定的な影響を与えた。
明治 14 年(1881 年)の政変で大隈重信が下野、伊藤博文の主導で「ドイツ・プロイセン型」の欽定憲法を作る方針が確定。伊藤は明治 15-16 年(1882-83 年)に欧州を再度訪れ、ベルリンでルドルフ・グナイスト、ウィーンでローレンツ・フォン・シュタインから直接指導を受けた。
帰国した伊藤は、明治 17 年(1884 年)に華族令、明治 18 年(1885 年)に内閣制度創設(初代内閣総理大臣に就任)を実現、明治 21 年(1888 年)から本格的な憲法起草を開始した。
起草から枢密院審議へ
憲法起草の中心は、伊藤博文を頂点に、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎・ロエスレル(ドイツ人法律顧問)の 5 名による少人数会議だった。明治 21 年(1888 年)4 月、起草完了。
同年、伊藤は内閣総理大臣を退任して新設の枢密院議長に就任、自ら憲法草案の審議を主宰した。枢密院は明治 21 年 6 月から明治 22 年 1 月まで、計 32 回の審議を行った。明治天皇は全審議に臨席、議論を直接聞いた。
第 2 代内閣総理大臣には伊藤の後継として黒田清隆(薩摩出身)が選ばれており、憲法発布の任を担うことになった。
明治 22 年 2 月 11 日 — 紀元節の発布式典
明治 22 年(1889 年)2 月 11 日、神武天皇即位 2549 年の紀元節。皇居正殿(宮中三殿前の表座敷)で憲法発布式典が挙行された。
午前 10 時、明治天皇は文官大礼服を着用し、各国公使・元勲・元老・各省次官以上の高官が列席する正殿に入御。天皇は黒田清隆首相に大日本帝国憲法・皇室典範・衆議院議員選挙法・貴族院令・会計法の 5 法典を下付した。同時に「大日本帝国憲法発布の勅語」が読み上げられた。
式典後、皇居二重橋から青山練兵場までの沿道は提灯行列で埋まり、国民は新時代の到来を祝った。各地の自治体・学校でも記念式典が開かれた。
当日朝の悲劇 — 文部大臣・森有礼の刺殺
発布式典のわずか数時間前、午前 9 時頃、文部大臣・森有礼が永田町の自邸で右翼士族・西野文太郎(山口県出身、24 歳)に短刀で刺された。森は登庁の準備中で、玄関先で刃を受けた。
刺殺の動機は、森が前年に伊勢神宮を視察した際、神官の許可なく内宮の御簾を ステッキで持ち上げて中を覗いたという噂(「森神宮不敬事件」)である。事実関係は不明な点も多いが、西野は「不敬な大臣を断つ」と主張した。
森は腹部を深く刺され、その日のうちに死去。享年 42。発布式典には黒田首相と他閣僚が出席したが、森の席は空席のままであった。森の遺骸は青山霊園 1種イ 1 号 12 側に葬られた。
「アジア初の近代憲法発布の日」と「文部大臣の暗殺」が同日に重なった事実は、近代日本の出発点に内包されていた緊張 — 西洋化と国粋主義、開明と保守 — の象徴として記憶されている。
大日本帝国憲法の主要条項
| 章 | 内容 |
|---|---|
| 第 1 章 天皇 | 第 1 条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 |
| 第 2 章 臣民権利義務 | 言論・集会・信教の自由(法律の範囲内で) |
| 第 3 章 帝国議会 | 二院制(衆議院・貴族院)、立法権の協賛 |
| 第 4 章 国務大臣・枢密顧問 | 内閣による天皇の輔弼 |
| 第 5 章 司法 | 司法権の独立 |
| 第 6 章 会計 | 予算審議権の議会への付与 |
| 第 7 章 補則 | 改正手続き |
特徴:
- 欽定憲法: 国民の議決によらず天皇から下付される形式
- 天皇主権: 統治権の総攬者は天皇
- 議会の制限的役割: 予算・法律の協賛権限のみ、内閣は天皇に対して責任を負う
- 臣民の権利: 「法律の範囲内」での制限付き付与
戦後の日本国憲法(1947 年)と比べると国民主権・基本的人権・平和主義は明確でないが、当時のアジアでは画期的な成文憲法だった。
歴史的影響
1. アジアからの注目
清国・朝鮮・タイ・トルコなど、近代化を模索するアジア諸国は、日本の憲法発布を「アジアの国にも近代国家ができる」という実例として注目した。20 年後の中国清朝末期の立憲運動、トルコの青年トルコ運動、シャム(タイ)の近代化にも影響を与えた。
2. 議会開設と政党政治の始まり
憲法発布の翌明治 23 年(1890 年)、第 1 回衆議院議員選挙が実施され、第 1 回帝国議会が召集された。日本は東洋初の近代議会を持つ国となった。以後、政党政治・元老政治・軍部政治と日本の政治制度は変遷していくが、その出発点はこの日にある。
3. 「明治国家」の完成
廃藩置県(明治 4 年)、徴兵令(明治 6 年)、地租改正(同)、内閣制度(明治 18 年)と続いた明治の国家建設は、憲法発布で一つの完成を見た。明治政府は「維新の臨時政府」から「立憲国家」へと脱皮した。
4. 戦後憲法への伏線
大日本帝国憲法は明治・大正・昭和を通じて 58 年間存続、太平洋戦争敗戦後の昭和 22 年(1947 年)5 月 3 日に日本国憲法へと改正・施行された。改正手続きは形式的には大日本帝国憲法第 73 条に従ったため、現在の日本国憲法もまた、明治 22 年の発布から続く法統の延長線上にある。
関連する偉人とその役割
黒田 清隆(第 2 代内閣総理大臣)
薩摩藩出身、戊辰戦争で五稜郭攻略の参謀を務めた人物。明治 21 年(1888 年)4 月に伊藤博文の後を継いで第 2 代内閣総理大臣に就任、憲法発布の任を負った。
発布式典の翌日、首相としての方針演説で「政府の政策は政党の主張に偏らず、超然と進む」と表明、これが「超然主義」と呼ばれる戦前日本の内閣運営原則の起点となった。本霊園 1種イ 1 号 9 側に眠る。
森 有礼(文部大臣)
薩摩藩出身、明治 18 年(1885 年)初代文部大臣に就任。学校制度の体系化、教科書制度、教育勅語以前の道徳教育の整備など、近代日本教育制度の基盤を作った人物。
憲法発布の朝、自邸で凶刃に倒れた。「西洋崇拝で日本の伝統を踏みにじった」という当時の国粋主義者の論難を、暗殺という形で受けた最初の閣僚だった。享年 42。本霊園 1種イ 1 号 12 側に眠る。
関連する作品
- 司馬遼太郎『翔ぶが如く』(1972-76 年) — 明治国家建設期の薩摩出身者群像、黒田清隆も登場
- NHK 大河ドラマ『春の波涛』(1985 年) — 森有礼が主要人物として描かれる
- 小室直樹『日本人のための憲法原論』(集英社) — 大日本帝国憲法の制度論的解説
東京・千代田区永田町の旧国会議事堂前には、伊藤博文の銅像があり、憲法制定の起点を象徴している。憲法発布式典が行われた皇居宮殿正殿は、関東大震災と東京大空襲で焼失したが、現在は新宮殿として再建されている。