赤坂離宮(東宮御所)竣工
宮内省内匠頭・片山東熊の設計による東宮御所(後の赤坂離宮、現・迎賓館赤坂離宮)が竣工。明治日本のネオ・バロック様式建築の頂点で、片山がジョサイア・コンドル門下生として培った西洋建築技法を結集した、明治建築の最高傑作と評される。
明治建築の到達点
明治四十二年(一九〇九)七月四日、東京・赤坂の紀州徳川家旧邸地に「東宮御所」が竣工した。延床面積約一万五千平方メートル、左右対称の翼を広げる壮麗なネオ・バロック様式の宮殿建築は、宮内省内匠頭(たくみのかみ)・片山東熊(かたやま とうくま)が約十年の歳月をかけて設計監理した、明治日本の宮廷建築の頂点であった。フランス・ヴェルサイユ宮殿、ウィーン・シェーンブルン宮殿、ロンドン・バッキンガム宮殿を参考にしつつ、構造には日本独自の耐震対策を施した「西洋宮殿の和製総合芸術」であり、戦後に迎賓館赤坂離宮として再生して現代まで現役で機能している。
建設の背景 — 皇太子嘉仁親王のための御所
明治三十年代後半、政府は皇太子嘉仁親王(よしひと しんのう、後の大正天皇)の御所として、紀州徳川家旧邸地に新東宮御所を建設することを決定した。明治天皇の皇居(明治宮殿、一八八八年完成)が和風中心であったのに対し、皇太子の御所は完全な西洋様式とする方針が採られた。これは日清・日露戦争を経て国際社会の一員として認められた日本が、欧州の宮廷外交に対応できる公式空間を必要としていたためであり、皇室の威信を国際標準で表現する国家事業として位置付けられた。建設費は当時の国家予算の数パーセントに相当する巨額に達した。
片山東熊 — 萩出身の宮廷建築家
設計者の片山東熊は弘化二年(一八五四)、長州藩萩に生まれた。十代で奇兵隊に参加し戊辰戦争を戦った後、工部大学校(現・東京大学工学部)に第一期生として入学、ジョサイア・コンドルの直接の門下生となった。同期に辰野金吾(東京駅・日本銀行本店設計者)・曽禰達蔵がおり、彼らはコンドル四天王と呼ばれた。卒業後は宮内省に入り、有栖川宮邸・北白川宮邸・京都国立博物館・奈良国立博物館などを設計、宮廷建築・博物館建築の専門家として独自の地位を築いた。東宮御所はその集大成であった。
設計の特徴と「贅沢すぎる」逸話
片山は設計に先立ちフランス・イギリス・ドイツ・オーストリア・イタリアを歴訪し、ヴェルサイユ宮殿を範とした左右対称の平面構成、ネオ・バロック様式の外観、内装はロココ様式とアンピール様式を折衷した壮麗な装飾を採用した。羽衣の間・朝日の間・彩鸞の間・花鳥の間などの主要室は、フランスの工房に発注した家具・タピスリーで装飾された。竣工後、明治天皇は内部を視察した際に「贅沢すぎる」と諫言したと伝えられる。片山はこの一言に深く傷つき、晩年まで悩み続けたとされ、大正六年(一九一七)の逝去まで本作を「失敗作」として語ることがあったという。芸術家としての完璧主義と、君主に奉仕する官僚建築家の宿命が交錯する逸話として広く知られる。
戦後の迎賓館再生と国宝指定
東宮御所は大正・昭和を通じて赤坂離宮と呼ばれ、皇族の住居・国賓接遇に使用された。戦後は国立国会図書館・東京オリンピック組織委員会などの仮庁舎として転用された後、昭和四十九年(一九七四)に大規模改修を経て「迎賓館赤坂離宮」として再生し、外国元首・首脳の公式接遇施設となった。さらに平成二十一年(二〇〇九)、竣工百年を記念して明治以降の建造物として初めて国宝に指定された。片山が「失敗作」と嘆いた建築は、百年の時を経て日本近代建築史の頂点として公式に認定されたことになる。現在は迎賓館としての機能を保ちつつ一般公開も行われ、明治日本が到達した西洋建築受容の到達点として年間数十万人の来場者を迎えている。