日露戦争開戦
日本が露国に宣戦布告、日露戦争が始まる(2 月 8 日仁川沖・旅順港攻撃後)。海軍大臣・山本権兵衛が事前に連合艦隊体制を整備していた。
大国ロシアへの宣戦布告 — 「国運を賭けた」戦争の始まり
日露戦争は、明治 37 年(1904 年)2 月 8 日の日本海軍による旅順港・仁川沖攻撃に続き、2 月 10 日に日本がロシア帝国に正式に宣戦布告したことで開戦した、近代日本初の大国相手の総力戦である。
当時のロシアは陸軍 230 万人(平時 110 万人)、戦艦・装甲巡洋艦 23 隻を擁する欧州最大の軍事大国。対する日本は陸軍 25 万人、戦艦・装甲巡洋艦 12 隻 — 国力差は歴然としていた。日本政府首脳が「国運を賭けた」と評したこの戦争は、20 か月にわたる激闘の末、明治 38 年(1905 年)9 月のポーツマス条約で日本側の優勢として終結する。
背景 — 三国干渉から義和団、満洲占領、御前会議
明治 28 年(1895 年)、日清戦争に勝利した日本は下関条約で遼東半島を獲得したが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉で返還を強いられた。同年、ロシアは清国と密約を結び、シベリア鉄道の支線として東清鉄道の敷設権を獲得。明治 31 年(1898 年)にはその遼東半島を清国から租借し、旅順を要塞化、大連を商港として整備した。
明治 33 年(1900 年)の義和団事件で、ロシアは混乱に乗じて満洲全域に兵を進駐させた。事件鎮圧後も撤兵せず、明治 36 年(1903 年)に予定されていた撤兵期限を反故にして満洲を事実上占領下に置いた。さらにロシアは朝鮮北部の鴨緑江沿岸の森林伐採利権を確保し、朝鮮半島への影響力拡大を狙った。
日本政府内では明治 36 年(1903 年)以降、対露交渉(満韓交換論 — 満洲をロシア、朝鮮を日本)が進められたが、ロシア側は「韓国北部の中立化」を主張して譲らず、交渉は決裂に向かう。明治 37 年(1904 年)1 月、最終回答を待つ間に、御前会議で開戦が決定。2 月 6 日、日本政府はロシアとの国交断絶を通告した。
2 月 8 日 — 仁川沖と旅順港、宣戦布告前の奇襲
明治 37 年(1904 年)2 月 8 日夜、東郷平八郎率いる連合艦隊主力は旅順港外に到達。駆逐艦隊が港内のロシア太平洋艦隊に魚雷攻撃を加え、戦艦ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、巡洋艦パラーダの 3 隻を大破させた。同日、仁川沖でも日本艦隊がロシア巡洋艦ヴァリャーグ、砲艦コレーエツを撃沈する。
これらの先制攻撃は、2 月 10 日の正式な宣戦布告に先立って行われた。後の太平洋戦争(1941 年 12 月 8 日の真珠湾攻撃)も同じ構造を取ったため、戦後の歴史認識では「日本の伝統的戦法」として議論の対象になる。当時の国際法では宣戦布告前の戦闘行為は完全に違法とは言い切れなかったが、ロシア側はこれを「だまし討ち」と非難した。
2 月 10 日 — 宣戦布告
明治 37 年(1904 年)2 月 10 日、明治天皇は宣戦の詔書を発布した。「朕茲ニ露国ニ対シテ戦ヲ宣ス」 — 詔書は満洲・韓国における日本の権益、ロシアの不誠実な姿勢、平和的解決の試みの失敗を列挙し、「ここに祖宗の霊に誓って戦を交える」と宣言した。
同日、ロシアも日本に対して宣戦を布告。ニコライ 2 世は宣戦の詔書で「東洋の隣国の不法な攻撃」を非難した。
戦力比較と日本側の戦略
| 日本 | ロシア | |
|---|---|---|
| 陸軍兵力 | 開戦時動員 25 万、最終 約 100 万 | 平時 110 万、極東配備 約 9 万 → 最終 約 100 万 |
| 戦艦 | 6 隻(六六艦隊) | 7 隻(旅順)+ バルチック艦隊増派可 |
| 装甲巡洋艦 | 6 隻 | 16 隻 |
| 戦費 | 約 17 億円(国家予算の 6 年分) | 約 22 億円 |
日本側の戦略は「短期決戦で陸海ともに優勢を確立、列強仲介で講和」であった。長期戦になれば国力差で必敗 — この認識を桂太郎首相・山県有朋元老・小村寿太郎外相・大山巌参謀総長・山本権兵衛海相は共有していた。
開戦の体制を整えた人々
開戦は陸海軍の長年の準備の結果だった。海軍では山本権兵衛海相が明治 30 年代から推進した六六艦隊計画(戦艦 6・装甲巡洋艦 6)が、開戦時にほぼ完成していた。連合艦隊司令長官には東郷平八郎が起用され、参謀長には加藤友三郎が就任。陸軍では参謀次長・児玉源太郎が満洲軍の作戦計画を立案、大山巌が満洲軍総司令官として全戦線を統括した。
外交では、林董駐英公使が成立させた日英同盟(1902 年)により、フランスの対露参戦を抑止する効果が生まれていた。戦時公債のロンドン金融市場での起債も、同盟の制度的裏付けがあって初めて可能になった。
歴史的影響
- 日本の世界一等国入り
20 か月にわたる戦争の末、日本はロシアを陸海ともに破った。ポーツマス条約(1905 年 9 月)で講和し、朝鮮半島の優越権、遼東半島租借権、南満洲鉄道、樺太南半分などを獲得。アジアの一島国が、欧州の超大国を正面決戦で破った最初の事例として、世界政治の主要プレイヤーとなった。
- 国民意識の高揚と財政破綻寸前の戦費
戦死者約 8 万 4,000 名、戦傷病者約 50 万名、戦費約 17 億円。国民が背負った代償は莫大だった。賠償金が取れなかったことへの反発が、日比谷焼打事件(1905 年 9 月)につながる。
- アジア・ナショナリズムへの影響
「アジアの国がヨーロッパの大国を破った」事実は、インド・中国・トルコ・エジプト・ベトナム・ペルシャの民族運動指導者に強い印象を与えた。日露戦争はアジア解放運動の象徴的出来事となった。
- ロシア帝国の動揺と革命の伏線
戦争中の 1905 年 1 月、「血の日曜日事件」がペテルブルクで発生。同年 6 月には戦艦ポチョムキン号反乱、10 月にロシア全土ゼネスト。日露戦争での敗北は、12 年後の 1917 年ロシア革命の遠因となる。
関連する偉人とその役割
山本 権兵衛(海軍大臣 / 海軍大将)
薩摩出身、海軍兵学寮卒。明治 30 年代から長く海軍大臣を務め、六六艦隊計画を推進し、開戦に間に合うよう主力艦隊を整備した、日本海軍の制度設計者である。
開戦前夜、連合艦隊司令長官の人選で東郷平八郎を抜擢した責任者でもある。明治天皇に「なぜ東郷か」と問われ「東郷ならば運がいい」と答えた逸話は、日露戦争史で最も語られる人事判断として残る。戦時中は海軍大臣として補給・動員・人事を統括し、後方から勝利を支えた。後年、第 16 代・第 22 代の内閣総理大臣を歴任。本霊園 1種イ9号26側に眠る。
小村 寿太郎(外務大臣)
日向飫肥出身、ハーバード大学法学部卒。第一次桂太郎内閣の外相として日英同盟締結(1902 年)を主導、対露交渉では強硬派の中核を担った。
開戦時の外交責任者として、宣戦布告の文書・第三国向け説明・戦時外交を統括した。1905 年のポーツマス条約では自ら全権大使として講和に臨み、日露戦争を終結させる。本霊園 1種ロ12号1・6側に眠る。
東郷 茂徳(外務官僚 / 後の外務大臣)
鹿児島県苗代川出身、朝鮮陶工の子孫。明治 15 年(1882 年)生まれで、日露戦争開戦時(1904 年)は東京帝国大学文学部に在学中の青年であった。明治 45 年(1912 年)の外交官試験合格後、外務省に入省。
日露戦争を直接担当したわけではないが、明治日本が国運を賭けた対露戦争を「外交官志望の若者」として目撃した世代である。後年、太平洋戦争の開戦時(1941 年・東条内閣)と終戦時(1945 年・鈴木貫太郎内閣)に二度外相を務め、ポツダム宣言受諾の中心人物となる。日露戦争の勝利が日本に与えた「アジアの一等国」という自負と、その自負が太平洋戦争の敗北に行き着くまでの 40 年を、外交官として両端で見届けた人物である。本霊園 1種イ3号4側に眠る。
関連する作品
司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)は、日露戦争を題材とする近代日本文学の代表作。秋山好古・真之兄弟、正岡子規を主人公に、開戦から日本海海戦・奉天会戦・ポーツマス条約までを描く。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011 年)では、阿部寛・本木雅弘らが主要人物を演じた。
吉村昭『ポーツマスの旗』『海の史劇』、半藤一利『日露戦争史』(平凡社)なども代表的記録文学・歴史書である。