東京オリンピック開会
アジア初の夏季オリンピックが東京・国立競技場で開会。池田勇人首相の最後の大きな公務、戦後日本の復興を世界に示す象徴的な大会となった。
国立競技場の空に響いた開会宣言
1964 年東京オリンピック(第 18 回オリンピック競技大会)は、昭和 39 年(1964 年)10 月 10 日から 10 月 24 日まで、東京を主会場として開催されたアジア初の夏季オリンピックである。参加国・地域 93、参加選手 5,152 名、競技種目 20 種目 163 種目。
開会式は 10 月 10 日午後 2 時から東京・霞ヶ丘の国立競技場で行われ、5 万 5,000 人の観衆と、池田勇人内閣総理大臣をはじめとする日本政府首脳・各国代表が見守った。昭和天皇による開会宣言「第 18 回近代オリンピアードを祝い、ここに東京大会の開会を宣言します」が午後 3 時 1 分に発せられ、最終聖火ランナー・坂井義則(早稲田大学陸上部 1 年、広島原爆投下日の 1945 年 8 月 6 日広島生まれ)が聖火台に火を灯した。
この大会は、19 年前に敗戦で破壊された日本が戦後復興と高度経済成長を世界に示す象徴的舞台となった。同時に大会開会式から 15 日後、池田勇人首相は喉頭がんを公表して退陣を表明する。「所得倍増」を掲げて高度経済成長期日本を率いた宰相にとって、開会式出席は最後の大きな公務だった。
背景 — 戦後日本の国際復帰と高度経済成長
東京は当初、昭和 15 年(1940 年)の第 12 回オリンピック開催地に決定していた(1936 年ベルリン IOC 総会で承認)。だが日中戦争の拡大により昭和 13 年(1938 年)に開催権を返上、幻のオリンピックとなった経緯がある。戦後の昭和 27 年(1952 年)のサンフランシスコ平和条約発効で国際社会に復帰した日本は、昭和 31 年(1956 年)に国際連合に加盟、同年に再びオリンピック招致を始動した。
昭和 34 年(1959 年)5 月のミュンヘン IOC 総会で東京が招致を獲得(対立候補のデトロイト・ブリュッセル・ウィーンを破った)。当時の岸信介内閣がこれを受けて準備を開始したが、安保闘争(1960 年)を経て退陣、後を継いだ池田勇人内閣の下で本格準備が進められた。
大会開催に向けて、東京の都市基盤は短期集中で再構築された:
- 東海道新幹線(東京 - 新大阪間、開会式 9 日前の 10 月 1 日開業)
- 首都高速道路(都心環状線・羽田 - 神田間など)
- 東京モノレール(浜松町 - 羽田、9 月 17 日開業)
- 国立霞ヶ丘陸上競技場改修・国立屋内総合競技場(現・代々木第一体育館、丹下健三設計)・日本武道館
- 羽田空港の拡張、青山通り・赤坂見附の道路整備
総事業費 1 兆円規模、戦後復興と高度経済成長の到達点を一気に可視化する都市改造であった。「所得倍増計画」を掲げて 1960 年から首相を務めていた池田勇人にとって、この大会は政策成果を世界に示す最大の舞台となった。
昭和 39 年 10 月 10 日 — 国立競技場の午後
開会式当日 10 月 10 日は、東京の空がよく晴れた秋日和となった。前日 9 日まで雨が続いていただけに、この晴天は奇跡的な幸運と受け止められ、戦後の「体育の日」(現・スポーツの日)が 10 月 10 日に制定される根拠ともなった。
午後 2 時、選手団入場行進が始まる。アルファベット順で 94 か国・地域(東西ドイツ統一チーム含む)、5,152 名の選手が国立競技場に行進した。先頭はギリシャ、最後尾は日本選手団。日本選手団の旗手は重量挙げの三宅義信、団長は田畑政治。聖火リレーは沖縄から本土へと続き(沖縄返還前の特別措置として米国施政権下を経由)、最終ランナーは広島原爆の日に生まれた早稲田大学 1 年生・坂井義則 19 歳。聖火台への階段を駆け上り、聖火を点火したシーンは、戦後日本の象徴的映像となった。
昭和天皇による開会宣言、5,000 羽の鳩の放鳥、ブルーインパルスによる五輪の輪のスモーク描画、参加選手宣誓(体操の小野喬)。式典は午後 4 時頃に終了した。NHK と民放各局が同時生放送、テレビ受像機保有世帯数は前年から急増し、開会式視聴率は 85% を超えたとされる。
大会期間中、日本は金 16 個・銀 5 個・銅 8 個の計 29 個のメダルを獲得、参加国中第 3 位の好成績を記録した。女子バレーボール「東洋の魔女」の金メダル(対ソ連戦、視聴率 66.8%)、体操男子団体の金メダル、レスリング金メダル 5 個、柔道(初のオリンピック種目)で金メダル 3 個。マラソンではエチオピアのアベベ・ビキラが連覇、円谷幸吉が銅メダルを獲得した。
池田勇人首相と開会式
開会式に出席した池田勇人首相は、当時 64 歳。8 月から既に喉の不調を訴えており、医師からは精密検査を勧められていたが、オリンピック開会式までは政務を継続すると決断していた。
10 月 10 日の開会式は、戦前は大蔵省官僚として地方税務署を転々とし、4 年余りの闘病療養を経て戦後に大蔵次官に抜擢、1949 年から吉田内閣の蔵相として政界入りした池田にとって、政治家人生の集大成だった。「所得倍増」のスローガンで戦後日本の経済成長を制度的に方向づけ、東海道新幹線開業と東京オリンピック開会式を見届けた瞬間 — まさにその瞬間が、池田の体力と政治的役割の終わりでもあった。
開会式の 2 週間後、10 月 25 日に池田は喉頭がんを公表、退陣を表明。後継には佐藤栄作を指名した。翌昭和 40 年(1965 年)8 月 13 日、東京・国立がんセンターで死去。享年 65。「所得倍増」と東京オリンピックを国民に届けてから、首相の座を降りた 9 か月後の死だった。
歴史的影響
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戦後復興の象徴的完結 — 1945 年 8 月の敗戦から 19 年、占領期(1945-52)と高度経済成長期(1955-)を経て、戦後日本の復興と国際社会復帰を内外に印象づけた最大の舞台となった。「戦後はもう終わった」という感覚が国民に共有される節目だった。
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都市インフラの近代化 — 東海道新幹線・首都高速道路・モノレール・代々木屋内競技場・青山通りなど、戦後東京の都市骨格はこの大会で形成された。多くは 60 年経った現在も使われ続けている。
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高度経済成長の頂点 — 大会開催時の実質 GNP は池田が首相就任した 1960 年比で 7 割増、所得倍増計画は予定の 10 年を待たずに達成された。1968 年には西独を抜いて GNP 世界第 2 位となる。東京オリンピックはその助走の頂点に位置づけられる。
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テレビ放送の普及 — 開会式視聴率 85%、女子バレー決勝 66.8% など、テレビが「全国民が同時に体験する装置」として完全に定着した契機となった。NHK のカラー放送導入、衛星中継など、後のメディア環境の出発点となった。
関連する偉人とその役割
池田 勇人(第 58・59・60 代総理大臣 / 開会式出席)
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)の造り酒屋の四男に生まれ、京都帝国大学法学部を経て大蔵省入省。戦前は税務畑の地味な官僚として歩み、難病・落葉状天疱瘡で 4 年余りの療養を経て復職。戦後の昭和 22 年(1947 年)に大蔵次官、昭和 24 年(1949 年)に吉田茂内閣の蔵相として政界入りした。
昭和 35 年(1960 年)7 月、岸信介の安保闘争退陣を受けて自民党総裁・首相に就任。「寛容と忍耐」を掲げて政治の季節から経済の季節への転換を打ち出し、同年 12 月の閣議決定「国民所得倍増計画」で 10 年で実質 GNP を倍にする目標を提示した。実際には 7 年で達成。東海道新幹線開業・東京オリンピック・宏池会の系譜形成 — 戦後保守政治の主流派の源流を作った宰相である。
東京オリンピック開会式から 15 日後の 10 月 25 日に喉頭がんを公表して退陣、翌年 8 月 13 日に死去。享年 65。本霊園 1種イ 1 号 26 側に眠り、大久保利通・斎藤茂吉と同じ大区画に属する。戦後の高度成長を率いた宰相が、近代日本を作った人々のすぐ近くに眠る配置となった。同じ宏池会の系譜を継いだ宮澤喜一(1種ロ 17 号 12)も同じ青山霊園に眠る。
関連する作品
- 映画『東京オリンピック』(1965 年、市川崑総監督) — 文化映画として作られた公式記録映画。「記録か芸術か」の論争を呼んだ実験的作品で、後年カンヌ国際映画祭技術大賞を受賞、戦後日本の映像史を代表する一本となった
- 山際淳司『江夏の 21 球』所収「円谷幸吉 — 五輪のメッセンジャー」 — マラソン銅メダリスト円谷の悲劇を扱う代表的ノンフィクション
- NHK スペシャル『東京オリンピック』(1984 年、放送 20 年特集) — 当時の映像と関係者証言で開会式の意義を再構成
- 沢木耕太郎『オリンピア — ナチスの森で』ほか沢木のオリンピックノンフィクション群 — 1964 年東京を含むオリンピックの政治性を扱う
国立競技場は 2014 年に旧競技場が取り壊され、2019 年に新国立競技場(隈研吾設計)が完成、2020 年東京オリンピック(コロナ禍で 2021 年に延期開催)の主会場となった。1964 年と 2021 年の二度の東京オリンピックは、戦後日本と平成・令和の節目を二つながらに記憶している。