片山 東熊 (1854-1917)の肖像
片山 東熊の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

片山 東熊

かたやま とうくま

Katayama Tokuma

ネオ・バロックの粋を尽くした赤坂離宮(現・迎賓館)を設計した宮内省内匠寮の建築家。コンドル門下の第1期生。

生没年
出身地
長門国萩(現・山口県萩市)
死没地
東京
時代
明治・大正
役職
建築家・宮内省内匠頭
爵位
正三位
出身校
工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)
所属
宮内省内匠寮 / 帝国陸軍(工兵少佐)
受勲
勲一等瑞宝章
区画
1種ロ12号18側
タグ
建築 / 赤坂離宮 / 迎賓館 / ネオ・バロック / 宮内省内匠寮 / 萩 / 奇兵隊

「迎賓館」を設計した宮廷建築家

片山東熊は、明治・大正期を代表する建築家。皇室の宮殿・離宮・博物館を一手に手がけ、その頂点として赤坂離宮(現・迎賓館赤坂離宮、1909 年竣工)を設計した、近代日本宮廷建築の最高峰の一人である。

明治政府は欧米列強と肩を並べるため、首都東京に欧州水準の都市景観を作る必要に迫られていた。鹿鳴館・銀座煉瓦街・帝国ホテルなど明治建築の系譜の中で、片山が手がけた仕事は皇族のための公的空間という性格を帯び、最も格式の高い領域に位置していた。彼の建築は、ヴェルサイユ宮殿やバッキンガム宮殿に匹敵する建築を東洋に出現させるという、明治国家の自己呈示の野心そのものだった。

赤坂離宮は完成時点で「東洋唯一のネオ・バロック宮殿」と評され、世界の宮廷建築史にもその名を刻むことになる。しかし片山自身は、完成直後に明治天皇から「いささか華美に過ぎはせぬか」との言葉を賜り、その一言を生涯心の重荷として背負い続けたと伝わる。彼の人生は、技術の頂点に至った者が同時に味わう、孤独と矜持の両面を映し出している。

萩の奇兵隊士から工部大学校第 1 期生へ

嘉永 7 年(1854 年)、長門国萩(現・山口県萩市)で長州藩士・片山順輔の四男として生まれる。慶応 4 年(1868 年)、わずか 15 歳で奇兵隊に入隊し、戊辰戦争に従軍した。北越戦線にも加わったとされ、明治維新を兵卒として最前線で体験した世代である。

維新後、新政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルが工部大学校(現・東京大学工学部)で造家学科を立ち上げると、片山はその第 1 期生として入学。同期には後に日銀本店・東京駅を設計する辰野金吾、東京府庁舎を設計する曾禰達蔵らがいた。コンドル門下の第 1 期生 4 名は、いずれも近代日本建築を作る世代となる。

明治 12 年(1879 年)卒業後、片山は宮内省に出仕。皇族・華族の邸宅、博物館、宮殿の設計を専門に担う「宮内省内匠寮」のキャリアを歩み始める。

赤坂離宮 — 東洋唯一のネオ・バロック宮殿

明治 31 年(1898 年)、後の大正天皇となる皇太子嘉仁親王の東宮御所として、赤坂の旧紀州藩邸跡地に新宮殿を建てる計画が動き出した。設計の総責任者に指名されたのが、当時 40 代半ばの片山東熊である。

片山は構想を練るためヨーロッパを 3 度視察し、ヴェルサイユ宮殿、ルーヴル宮殿、バッキンガム宮殿、シェーンブルン宮殿など欧州の主要宮殿を実地調査した。10 年に及ぶ工期を経て、明治 42 年(1909 年)、赤坂離宮は完成する。

地上 2 階・地下 1 階、左右対称の堂々たるネオ・バロック様式。屋根には青銅製の鎧武者像、玄関には大理石の大階段、室内には金箔・モザイク・絹織物が惜しみなく用いられた。建材の多くは国産で、内装の工芸は日本の最高水準の職人が動員された。明治国家が産業・芸術の全力を投入した、まさに国家事業としての宮殿だった。

しかし竣工後、明治天皇に披露した際、天皇は「あまりに華美に過ぎる」と一言述べたと伝わる。片山はその言葉を深く受け止め、以後の人生で苦悩を抱え続けたという。皇太子嘉仁親王(大正天皇)は健康上の理由から赤坂離宮にほとんど居住せず、建物は完成後しばらく実用されないまま明治末期を迎えた。

それでも片山が遺した建築は本物だった。赤坂離宮は戦後、迎賓館として改修され、現在も各国元首の国賓を迎える日本国の最高格式の建物として使用されている。平成 21 年(2009 年)、明治期建築として初めて国宝に指定された。

京都国立博物館・奈良国立博物館・表慶館

片山が手がけた主要建築は赤坂離宮だけではない。京都国立博物館本館(明治 28 年/1895 年竣工、現・明治古都館、重要文化財)、奈良国立博物館本館(明治 27 年/1894 年竣工、現・なら仏像館、重要文化財)、東京国立博物館表慶館(明治 42 年/1909 年竣工、皇太子嘉仁親王のご成婚記念、重要文化財) — いずれも明治建築の代表作として現存し、国の重要文化財に指定されている。

これらの博物館建築は、文化財を守り伝える「器」として、収蔵物に劣らぬ歴史的価値を持つ。片山の建築は、日本人が美術・歴史をどう見るかという公共空間の枠組みそのものを設計したものでもあった。

軍人としての顔と宮内省内匠頭

片山は陸軍工兵少佐の階級も持つ。戊辰戦争に従軍した奇兵隊出身の経歴の延長で、軍籍に在籍しながら宮内省で建築に従事するという、明治初期に特有の二刀流の職歴であった。

明治 38 年(1905 年)、宮内省内匠頭(たくみのかみ)に就任。皇室建築の最高責任者として、赤坂離宮の竣工までを総指揮した。位階は最終的に正三位、勲一等瑞宝章を授与されている。

赤坂離宮完成の 8 年後、東京で死去

大正 6 年(1917 年)10 月 24 日、東京の自宅で死去。享年 64。赤坂離宮の竣工から 8 年後、自身が設計した宮殿が皇太子の住居としては十分に使われないまま、片山は世を去った。

晩年は赤坂離宮への明治天皇の言葉を心に抱き続け、健康を損ねていたと伝わる。だが彼が遺した建築群は、明治国家の最も誇り高い瞬間を石と煉瓦で凍結し、現代に伝え続けている。

青山霊園に眠る

片山東熊の墓は、青山霊園 1種ロ12号18側。萩の奇兵隊から出発し、ヨーロッパを学び、東洋唯一のネオ・バロック宮殿を東京に出現させた建築家が、明治を作った同時代人たちと同じ青山の一画に眠っている。

赤坂離宮(現・迎賓館赤坂離宮)は青山霊園から徒歩でも訪ねられる距離にあり、片山の墓参の後にその完成形を見に行く道筋は、近代建築巡礼の小さなコースとして自然なつながりを持つ。国宝の宮殿と設計者の墓が同じ街区に並んでいるという事実は、東京という都市の歴史の厚みをそのまま示している。

墓参り写真

  • 墓所

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墓所の位置

関与した事件

参考資料

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