池貝 庄太郎
いけがい しょうたろう
Ikegai Shotaro
国産初の旋盤と国産初のディーゼルエンジンを製造した池貝鉄工所の創業者。日本機械工業の祖の一人として東京工業大学教授も務めた。
国産初の旋盤、国産初のディーゼル ——日本機械工業の祖
池貝庄太郎は、明治 22 年(1889 年)に東京・芝に池貝工場を創業し、同年に日本初の国産 9 フィート英式旋盤を製造した機械工業の祖である。以後、蒸気機関、ガス機関、石油機関、そして大正 9 年(1920 年)に国産初の空気噴射式ディーゼル機関、大正 15 年(1926 年)に国産初の燃料噴射式ディーゼル機関を続々と完成させた。
東京・本郷の士族の家(安房勝山藩・酒井家の家臣の子孫)に生まれ、横浜の西村鉄工所で徒弟修業、田中製作所(東芝の前身、田中久重創業)で実務経験を積み、20 歳で兄弟 4 名と独立創業。明治・大正・昭和の日本工業化の中で、工作機械(旋盤)と内燃機関(ディーゼル)という、現代に至るまで産業の根幹を支える機械を国産化した。
明治 39 年(1906 年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)教授就任。実業と教育の両面から、日本の機械工業を育てた。昭和 9 年(1934 年)7 月 28 日、脳出血と肺炎で東京にて没。享年 64。
「機械を作る機械(マザーマシン)を作る」という、工業化の最も根本的な仕事を担った人物として、現代の日本機械工業の出発点に立つ。
安房勝山藩士の家、横浜の鉄工所で徒弟修業
明治 2 年(1869 年)11 月 13 日、東京府東京市本郷区妻恋町(現・東京都文京区)に生まれる。家系は安房勝山藩(酒井家、3 万石)の藩士の流れを汲む。維新後の士族の家業転換期に育ち、機械工業という新分野への進出を選んだ世代である。
明治 15 年(1882 年)、13 歳で横浜の西村鉄工所(西村機械製造所)の徒弟となる。西村鉄工所は当時の横浜で西洋機械を扱う数少ない工場の一つで、池貝はここで西洋機械の構造と工作技術を学んだ。
明治 19 年(1886 年)、田中製造所(現在の東芝、田中久重の創業)に移籍。田中久重は江戸時代の「からくり儀右衛門」と呼ばれた天才発明家で、晩年に田中製造所を設立して機械工業の道を開いた人物である。池貝は田中の系譜の中で、本格的な機械設計と製造の実務を学んだ。
池貝工場創業、国産初の 9 フィート英式旋盤(明治 22 年)
明治 22 年(1889 年)、20 歳の池貝は兄弟 4 名と共に東京・芝に「池貝工場」を独立創業した。同年中に、国産初の 9 フィート英式旋盤を製造する。
旋盤(lathe)は「機械を作る機械」と呼ばれる工作機械の代表で、金属を回転させながら削って正確な円筒形状を作る装置である。旋盤がなければ蒸気機関も内燃機関も発電機もすべて作れない、近代機械工業の最基層機械である。
明治期の日本は工作機械を全面的に英米独からの輸入に依存していた。池貝の国産旋盤は、輸入品より価格は安く、性能は実用上十分というものだった。「日本人が日本で機械を作る機械を作る」という近代産業の根幹を、池貝は 20 歳で実現した。
蒸気機関・ガス機関・石油機関
明治 28-30 年(1895-1897 年)、池貝工場は蒸気機関、石油機関、ガス機関を順次完成させた。当時の日本産業界では小規模工場の動力源に蒸気機関・ガス機関が広く必要とされており、池貝の製品は中小工場の動力近代化を支えた。
明治 38 年(1905 年)、池貝式標準旋盤を開発。各種サイズの旋盤を規格化し、量産体制を確立した。これにより日本の工場が必要とする工作機械の供給体制が、輸入依存から国産自給へと大きく動いた。
明治 39 年(1906 年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)に教授として招聘される。実業家でありながら工業教育の現場に立ち、若い技術者を育てた。
明治 40 年(1907 年)、池貝工場は鉄道車両製造に進出。明治 43 年(1910 年)頃には、大手機械メーカーとしての地位を確立した。大正 2 年(1913 年)、株式会社化(池貝鉄工所)。
国産初のディーゼル機関(大正 9 年 / 1920 年)
池貝の最大の業績は、ディーゼル機関の国産化である。
大正 9 年(1920 年)、池貝鉄工所は国産第 1 号の空気噴射式ディーゼルエンジンを完成させた。ルドルフ・ディーゼル(独)が 1893 年に発明したディーゼル機関は、第一次世界大戦中に船舶・潜水艦の動力として急速に重要性を増していた。日本海軍も国産ディーゼルの開発を渇望しており、池貝の国産化はその要請に応えた形である。
大正 15 年(1926 年)、池貝はさらに国産初の燃料噴射式ディーゼルエンジンを完成させる。燃料噴射式は空気噴射式より小型・高効率で、現代まで連なるディーゼル機関の標準形式の出発点となる。
池貝のディーゼル機関は、戦間期の日本商船・漁船・潜水艦の動力源として広く採用された。日本がディーゼル時代に独自の技術基盤を持って入ることができた背景には、池貝の長期的な内燃機関開発があった。
緑綬褒章、晩年
昭和 3 年(1928 年)、池貝は緑綬褒章を受章。産業への功績を称える明治・大正期の代表的勲章で、実業家への授与は希少だった。
昭和 9 年(1934 年)7 月 28 日、脳出血と肺炎を併発して東京で死去。享年 64。池貝鉄工所はその後も発展を続け、現代の池貝(株式会社池貝)として工作機械・ディーゼルエンジンの製造を継続している。
逸話・エピソード
田中久重との師弟関係 ——「からくり儀右衛門」の系譜
池貝が修業した田中製造所の創業者・田中久重(1799-1881)は、江戸時代の「からくり儀右衛門」として知られる天才発明家である。万年時計(1851 年完成)、蒸気船模型、写真機など、江戸期の機械技術の最頂点に立った人物だった。
田中は明治 8 年(1875 年)、76 歳で東京・銀座に田中製造所を設立し、電信機器・機関車部品など近代機械の製造に乗り出した。明治 14 年(1881 年)死去後、田中製造所は芝浦製作所として発展し、戦後の東京芝浦電気(東芝)に至る。
池貝は田中没後の田中製造所で修業したことになるが、田中の遺した「からくり」(精密機械)の精神は工場文化として残っていた。池貝が後年「機械を作る機械」(旋盤)に生涯を捧げた背景には、田中久重から受け継いだ精密機械への信念があったとされる。
「池貝の旋盤がなければ日本の工業はなかった」
戦後、池貝鉄工所の旋盤と内燃機関の歴史的意義について、産業史研究者は「池貝の旋盤がなければ日本の機械工業は成立しなかった」と評している。
工作機械(マザーマシン)は産業の最基層であり、これを輸入に依存している国は工業独立を達成できない。池貝が明治 22 年(1889 年)から半世紀にわたって工作機械の国産化と性能向上に取り組んだことで、日本は戦前・戦後の工業化を独自の機械工業基盤の上に展開することができた。
戦後の高度経済成長期、日本の工作機械メーカーは世界市場で米独に肩を並べる地位に達した(山崎マザック・牧野フライス・森精機など)。その全ての出発点が、池貝庄太郎の池貝工場創業にあった。
東京工業大学教授と「工業教育の二刀流」
明治 39 年(1906 年)、池貝は東京高等工業学校(現・東京工業大学)教授に招聘された。実業家として工場経営を続けながら、若い技術者の教育に当たる「二刀流」を貫いた。
授業では、教科書通りの理論だけでなく、池貝工場での実際の機械設計・製造の事例を頻繁に紹介した。「教室の学問だけでは機械は作れない、工場の現場で機械と格闘してこそ機械工学が身につく」 — 池貝の教育哲学は実地主義だった。
池貝の門下からは多数の機械工業の経営者・技術者が輩出された。日本機械学会の創設(明治 30 年)や、東工大の機械工学科の充実にも、池貝は実業界の代表として深く関わった。
青山霊園に眠る
池貝庄太郎の墓は青山霊園にある。同じ青山霊園には、修業時代の師筋・田中久重(東芝の祖、からくり儀右衛門)、同時代の通信機器産業の祖・沖牙太郎、明治期食品工業の祖・森永太一郎、真珠養殖の御木本幸吉 — 明治日本の産業を立ち上げた創業者たちが集まっている。
「機械を作る機械」を作り続けた一生は、明治近代産業の同志たちの隣で終わりを迎えた。




