沖 牙太郎 (1848-1906)の肖像
沖 牙太郎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

沖 牙太郎

おき きばたろう

Oki Kibataro

国産電話機を初めて製造した「沖電気」の祖。広島の農家から銀細工を経て、東京・銀座に明工舎を創業し日本の通信機器産業を立ち上げた。

生没年
出身地
安芸国沼田郡新庄村(現・広島県広島市西区)
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
実業家
タグ
通信機器 / 沖電気 / 国産電話機 / 銀座

国産電話機を初めて作った男 ——「沖電気」のはじまり

沖牙太郎は、明治 14 年(1881 年)に東京・銀座に「明工舎」を創業し、同年中に日本初の国産電話機を製造した実業家である。明工舎は明治 22 年(1889 年)に「沖電気工場」と改称、現在の沖電気工業株式会社(OKI)の祖となる。

広島の農家の末子として生まれ、13 歳で銀細工の徒弟として家業を離れ、27 歳で東京に出て工部省電信寮(後の電信局)に勤務。米国製電話機が日本に届いた明治 10 年(1877 年)頃から国産電話機の試作に取り組み、明治 14 年(1881 年)の独立創業で日本の通信機器産業を立ち上げた。

軍用通信機器(海軍電話線、陸軍野戦電話)の納入で会社を成長させ、明治 20 年代には東京の電話市場で「ほぼ独占」と評される地位を築いた。日露戦争(明治 37-38 年)では沖電気の野戦電話機が前線通信を支えた。明治 39 年(1906 年)5 月 29 日、東京で没。享年 58。

幕末の銀細工の徒弟から、明治日本の通信機器産業の祖になった一生 —— 明治初期の「無名の発明者から実業家になった男」の典型である。

安芸国の農家の末子、銀細工の徒弟へ

嘉永元年(1848 年)5 月 10 日、安芸国沼田郡新庄村(現・広島市西区)に生まれる。父・沖太郎は農家。牙太郎は末子として育てられた。

文久元年(1861 年)、13 歳で吉崎家に養子に入り、銀細工の徒弟として家業を離れた。幕末の広島で銀細工修業を 13 年積み、細密な金属加工技術を身につけたことが、後の電信機・電話機製造の素地となる。

明治 7 年(1874 年)、27 歳で東京に出る。家業の農業を継ぐことを拒み、銀細工の技術を活かして新時代の職を求めた。工部省電信寮(明治新政府の電信行政機関)に職を得て、電信機の修理・製造に従事することになる。

電信寮での修業 ——電信から電話へ

明治 7-10 年(1874-1877 年)、沖は工部省電信寮で電信機の保守と組立に従事した。当時の日本の電信線は急速に拡張中で、東京-横浜・東京-長崎などの幹線が次々に開通していた時期である。

明治 10 年(1877 年)、ベル(Alexander Graham Bell)が前年に発明した電話機が米国から日本に持ち込まれた。電信寮内で電話機の試作研究が始まり、沖もその試作チームに加わった。「電気を使って音声を伝える」という新技術への挑戦が、沖の生涯の主題となる。

明治 14 年(1881 年)、沖は工部省を退職し、東京・銀座に独立して「明工舎」を創業した。「明治の工業を作る舎(やかた)」の意。電信機・電話機・電線・電気ベルの製造販売を業とする、日本初の本格的な通信機器メーカーの誕生である。

明工舎・国産電話機(明治 14 年)

明工舎は創業の明治 14 年(1881 年)中に、日本初の国産電話機を完成させた。ベル式磁石発電機型電話機の国産化で、米国 Western Electric 社の輸入品に対抗する製品だった。

明治 15 年(1882 年)、陸軍省は沖の携帯印字電信機と軍用乾電池を高く評価し、軍納入が始まる。海軍からは東京-横須賀間の海軍電話線敷設を受注。明工舎は軍需通信機器の主要納入業者として急成長した。

明治 22 年(1889 年)、明工舎は「沖電気工場」と改称。明治 25 年(1892 年)頃には東京の民間電話市場でも「ほぼ独占」と評される地位を確立した。沖の経営の特徴は「広告戦略の巧みさ」で、当時の代表的観光名所だった浅草凌雲閣(明治 23 年完成)に沖製電話機を設置するなど、最新通信機器の存在を市民に印象づける宣伝手法を駆使した。

日露戦争 ——前線で活躍した沖の野戦電話機

明治 37 年(1904 年)、日露戦争勃発。沖電気の野戦電話機は満洲の最前線で広く使われ、奥保鞏第二軍・乃木希典第三軍・野津道貫第四軍の各部隊と司令部の通信を支えた。

奉天会戦(明治 38 年 3 月)では、満洲軍総司令部と各軍司令部の有線通信網が、沖電気の野戦電話機と電線で構成された。日本軍の指揮統帥が機能した背景には、沖の通信機器が前線で実用に堪える性能を持っていた事実があった。

明治 39 年(1906 年)5 月 29 日、東京で死去。享年 58。沖電気工場は息子・沖牙太(2 代目沖牙太郎)が引き継ぎ、大正・昭和・戦後を通じて発展し、現在の沖電気工業(OKI)に至る。

逸話・エピソード

浅草凌雲閣に電話機を設置 ——明治の広告戦略

明治 23 年(1890 年)11 月、東京・浅草に凌雲閣(通称「浅草十二階」)が完成。地上 52m の高さで、当時東京最高の建造物として大評判となった。

沖は凌雲閣の最上階に明工舎製の電話機を設置し、入場者が地上の店舗と通話できる仕掛けを作った。「最新通信機器の魔法」を一般市民が実体験する場として、これは画期的な宣伝だった。多くの東京市民が凌雲閣の電話機で初めて電話の音声を聞き、「沖の電話機」の知名度が一気に広まった。

明治期の広告手法として、ランドマーク建造物との連動展示は希少だった。沖は明治の実業家の中でも、「製品の信頼性」と「市民へのアピール」を両立させる経営センスを持っていた。

国産電話機の量産化 — 米国製品との競争

明治 14-25 年(1881-1892 年)の十数年間、明工舎(沖電気)は米国 Western Electric 社・スウェーデン Ericsson 社などの輸入品と東京市場で競争した。沖の戦略は「米国製と同等の品質を、より安く、修理サービス付きで」だった。

電信寮時代に修理経験を積んだ沖は、納入後の保守メンテナンスを徹底し、故障時の対応の速さで信頼を得た。「沖の電話機なら直してくれる」という安心感が、外国製品との競争で決定的な差となった。

明治 25 年(1892 年)頃には、東京市内に設置された電話機の大半が沖電気製となり、輸入品は高級用途・特殊用途に限定されていった。日本の通信機器メーカーとして初めて市場独占的地位を確立したのが沖電気だった。

銀座から始まった日本の通信機器産業

明工舎の創業地は東京・銀座(現在の銀座 4 丁目付近)だった。明治 14 年(1881 年)の銀座は、銀座煉瓦街(明治 5 年完成)が建ち並ぶ東京の最新流行発信地で、新興産業が次々に立ち上がる場所だった。

沖の明工舎・後の沖電気が銀座から東京全体・全国へと事業を広げていく姿は、明治日本の産業近代化の象徴的軌跡である。同時代に銀座から始まった企業には森永商店(明治 32 年/1899 年、森永太一郎、青山霊園に眠る)・服部時計店(明治 14 年、服部金太郎)・資生堂(明治 5 年、福原有信、同じく 5 月 10 日生まれ)などがあり、銀座は近代日本の産業発祥地でもあった。

沖牙太郎と資生堂創業者・福原有信が同じ 5 月 10 日生まれ(沖は嘉永元年/1848 年、福原は嘉永元年/1848 年)というのは、奇しき偶然として知られる。

青山霊園に眠る

沖牙太郎の墓は青山霊園 1イ34・35 区画にある。同じ青山霊園には、田中久重(東芝の祖、からくり儀右衛門)、池貝庄太郎(池貝鉄工所創業者、国産旋盤・国産ディーゼル)、森永太一郎(森永製菓創業者) — 明治日本の機械工業・通信業・食品業を立ち上げた創業者世代が並ぶ。

幕末の銀細工徒弟から始まり、明治の通信機器産業の祖になった一生は、ここで明治の同時代産業人たちと隣り合っている。

墓所の位置

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参考資料

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