森永 太一郎 (1865-1937)の肖像
森永 太一郎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

森永 太一郎

もりなが たいちろう

Morinaga Taichiro

森永製菓創業者。米国で習得した西洋菓子製造技術を日本に持ち込み、ミルクキャラメルとマシュマロを国民食に押し上げた佐賀伊万里出身の菓子王。

生没年
出身地
佐賀県伊万里(現・佐賀県伊万里市)
死没地
九州から東京へ向かう船中(伊万里で病に倒れる)
時代
明治・大正
役職
実業家
区画
1種イ6号2側
タグ
森永製菓 / ミルクキャラメル / キリスト教徒 / エンゼルマーク

ミルクキャラメルを日本人の口に運んだ「菓子王」

森永太一郎は、明治 32 年(1899 年)に東京・赤坂溜池で 森永西洋菓子製造所(後の森永製菓)を創業した実業家である。日本に 西洋菓子の量産技術を持ち込み、ミルクキャラメル・マシュマロ・チョコレートを国民食に育て上げた。

22 歳で単身渡米、無一文から 11 年間の苦学で米国の菓子製造技術を身につけて帰国した叩き上げ。クリスチャンとして洗礼を受け、ロゴマークの エンゼル(天使)は、その信仰を反映したものである。

「お菓子は日本人の心も体も健やかにする」 — 森永が掲げたこの理念は、戦前日本の食文化に最も深く影響を与えた商業思想の一つとなった。

伊万里の士族の子から、22 歳で渡米

慶応元年(1865 年)4 月 4 日、佐賀県伊万里(現・伊万里市)の陶器商の家に生まれる。幼少期に父が事業に失敗、6 歳で母と死別という不遇な少年時代を送った。

伊万里・有田の陶器商に奉公したのち、明治 14 年(1881 年)16 歳で上京。横浜の貿易商で働きながら英語を学び、独立を志した。明治 21 年(1888 年)、22 歳で単身渡米。サンフランシスコに上陸した時の所持金はわずか数ドルだったと伝わる。

米国では当初、英国人家庭のコック・庭師として住み込みで働き、夜は学校で英語と簿記を学んだ。菓子の道に進むきっかけは、職を求めて訪れたカリフォルニアの菓子工場での出会いである。「西洋人が常食する菓子こそ、未開拓の市場だ」と直感した森永は、各地の菓子工場を渡り歩き、製パン・製菓・キャンディ製造の技術を覚えていった。

苦難の渡米生活を支えたのは、カリフォルニアで受けた洗礼である。森永はキリスト教徒となり、「人のためになる仕事」を生涯の規範とした。

明治 32 年、赤坂溜池で創業

11 年の修業を終え、明治 32 年(1899 年)8 月、森永は東京・赤坂溜池に 「森永西洋菓子製造所」を開いた。2 坪ほどの作業場、職人は森永自身を含めて 3 人。最初の主力商品は マシュマロ(当時の表記では「真珠麿(ましゅまろ)」)であった。

しかし日本の消費者には西洋菓子の文化がまだ浸透しておらず、創業から数年は経営は苦しかった。森永は菓子箱を担いで全国の駅頭・観光地・軍隊納入を行脚し、徐々に販路を広げていく。

明治 38 年(1905 年)、ミルクキャラメルを発売。米国式のミルク・バター・砂糖を煮詰めた洋風キャラメルである。当初は紙箱の量り売りだったが、大正 3 年(1914 年)、画期的な「ポケット・サイズの 20 粒入り紙箱」(現在も続く黄色いパッケージの原型)を発売。森永の名を全国の子どもに知らしめた商品となった。

「エンゼルマーク」の由来

明治 38 年(1905 年)、商標として エンゼル(天使)のマークを制定。森永自身のキリスト教信仰と、「菓子は子どもに翼を与える」という理念を込めたものとされる。

森永のエンゼルマークは、日本企業の商標としては最も長く愛されている図案の一つで、現在もパッケージに引き継がれている。

森永製菓株式会社へ、そしてキリスト教伝道

明治 43 年(1910 年)、個人事業を法人化して 森永製菓株式会社を設立。大正期にはチョコレート・ビスケットへ商品ラインを拡大し、横浜・鶴見にアジア最大級の製菓工場を建設した。

太一郎は晩年、経営を女婿・松崎半三郎に譲り、キリスト教伝道に専念するようになる。佐賀・伊万里の郷里にも教会を建て、自ら全国を巡回して伝道を行った。「もう菓子の話は終わった、これからは魂の話だ」 — その姿はかつての菓子王というより、巡回伝道者そのものだった。

昭和 12 年 1 月 25 日、伝道の旅先で

昭和 12 年(1937 年)1 月 25 日、伝道のため滞在していた九州・伊万里の郷里で病に倒れ、東京に戻る船中で死去。享年 71。

森永製菓は太一郎の死後も発展を続け、戦後の高度経済成長期にチョコレート・キャラメル・ハイチュウなどで日本の駄菓子・洋菓子文化を牽引する企業となった。

親族の著名人

逸話・エピソード

サンフランシスコの公園で野宿した青年

明治 21 年(1888 年)、22 歳でサンフランシスコに到着した森永は、わずか数ドルの所持金で言葉も通じない異国に放り出された。雇い口がすぐには見つからず、公園のベンチで野宿した夜もあったと後年語っている。「あの夜、星空を見ながら『日本に帰るくらいなら飢え死にする』と決めた」 — 晩年、伝道のため郷里に戻った森永が、信徒の集まりで青年に語った話として残っている。

カリフォルニアの菓子工場で職を得たのも、住み込みコックの伝手で「日本人にもチャンスをくれる」と紹介されたのが始まりで、菓子作りが天職になるとは渡米時には想像すらしていなかった。「人生は計画通りには進まない、神が用意した道を歩むだけだ」 — クリスチャンとなった彼の信仰は、この野宿の夜から始まったとも言われる。

「お菓子で世界を平和に」 — 売れない時代の信念

明治 32 年(1899 年)に赤坂溜池で創業した直後、森永の菓子は売れなかった。日本人にはマシュマロもキャラメルもなじみがなく、「西洋人の食い物」と敬遠された。職人 3 人で作ったマシュマロは在庫の山となり、創業半年で資金は尽きかけた。

それでも森永は、「お菓子は子どもを笑顔にする、笑顔は家庭を平和にする、家庭の平和は国の平和になる」と職人に語り続けたという。自ら菓子箱を担いで横浜・神戸・大阪の駅頭で実演販売を行い、「ひとつ、ふたつ」と数えながら売って歩いた。創業から 6 年目の明治 38 年(1905 年)、ミルクキャラメル発売でようやく軌道に乗る。「諦めなければ必ず道は開ける」 — 後年の森永製菓社内訓に残るこの言葉は、創業期の野宿同様の苦境を生き抜いた本人の実感だった。

青山霊園に眠る

森永太一郎の墓は、青山霊園 1種イ6号2側。同じ「1種イ」エリアには、明治の元勲・大久保利通(2 号)、博愛社を創設した 佐野常民(5 号)など、近代日本を作った人々が眠る。

クリスチャンとして生涯を生きた菓子王の墓には、エンゼルマークを思わせる質素な意匠が施されているという。

墓参り写真

  • 墓所

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墓所の位置

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参考資料

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