木村 喜毅
きむら よしたけ
Kimura Yoshitake
幕府軍艦奉行・摂津守。咸臨丸の正使艦長として勝海舟・福澤諭吉らと万延元年(1860)に渡米、日米修好通商条約批准の海路を率いた旗本。
咸臨丸艦長 — 万延元年(1860)、日米外交の海路を率いた旗本
木村喜毅(よしたけ)、号は 芥舟(かいしゅう)、官名 摂津守 で広く知られる。万延元年(1860 年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府は 新見正興を正使とする使節団をワシントンに派遣した。その護衛・随行艦として 咸臨丸(オランダ製の蒸気帆船軍艦)が太平洋を渡る — その 正使艦長として、軍艦奉行・木村摂津守が任命された。
副艦長は 勝麟太郎(後の海舟)、通弁士に ジョン万次郎、従者として 福澤諭吉(後の慶應義塾創設者)、その他 90 余名の幕府要員が乗船。日本人が太平洋を独力で横断した最初の航海(1860 年 1 月 19 日浦賀発・2 月 25 日サンフランシスコ着)であった。
木村摂津守は 2,000 石の旗本(後 3,000 石加増)で、勝海舟は無役の小普請(俸禄数百石)。身分差は歴然としていたが、咸臨丸の航海で二人は終生の友人となる。
帰国後、軍艦奉行として幕府海軍の中枢を担い、明治維新後は静岡藩に移って沈黙の余生を送った。
旗本の家から、長崎海軍伝習所へ
文政 13 年/天保元年(1830 年)7 月 12 日(陽暦 8 月 30 日)、江戸で 旗本・木村家の子として生まれる。木村家は 2,000 石の中堅旗本で、譜代の家柄。
安政 2 年(1855 年)、幕府が長崎に開設した 長崎海軍伝習所にオランダ海軍士官 ペルス・ライケンを招き、勝麟太郎・矢田堀景蔵ら俊英を派遣。木村も 海軍伝習所頭取として現地に赴き、洋式航海術・蒸気機関・砲術を学んだ。
幕府がオランダから贈与・購入した蒸気軍艦 観光丸・咸臨丸・朝陽丸などを運用する 軍艦操練所(後の軍艦奉行所)の中心人物となった。
万延元年遣米使節 — 咸臨丸航海
万延元年(1860 年)1 月 19 日、咸臨丸は 浦賀を出港。木村摂津守を 軍艦奉行 兼 咸臨丸艦長とし、勝麟太郎を 副艦長、ジョン万次郎を通弁士、福澤諭吉を従者として乗せた。
太平洋横断は荒天に遭遇し、勝海舟と木村摂津守は 航海方針で対立することもあったと伝わる。しかし 2 月 25 日(陽暦)、サンフランシスコに到着。日本国船としてアメリカに最初に来航した蒸気軍艦となった。
サンフランシスコ滞在中、メア・アイランド海軍工廠で咸臨丸の修理を受け、5 月 5 日に同地を出港、ハワイ経由で 6 月 23 日(陽暦)に浦賀帰着。4 ヶ月の太平洋往復航海は、日本人の海洋技術の最初の大規模成功として歴史に刻まれた。
軍艦奉行として — 幕末海軍の中枢
帰国後、木村は 軍艦奉行(幕府海軍の最高責任者)を歴任、慶応元年(1865 年)頃まで在任。幕末の 幕府海軍の整備(榎本武揚・赤松則良ら俊英の登用、横須賀製鉄所設立への関与)を主導した。
慶応 4 年/明治元年(1868 年)、戊辰戦争勃発。木村は 江戸城開城(4 月 11 日、勝海舟・西郷隆盛の会談で決定)時点で旗本としての立場を退き、静岡藩(徳川家の駿河転封先)に従って静岡に移った。
榎本武揚らは 箱館戦争(1868-69 年)に向かったが、木村は穏健派として 静岡で沈黙を選んだ。
静岡藩から東京へ — 沈黙の余生
明治政府からの 出仕要請を木村は固辞し続けた。勝海舟が明治政府で海軍卿・参議として活動を続けたのと対照的に、木村は 「徳川家の旗本としての矜持」を守り、静岡・東京で 30 年余の 沈黙の余生を過ごした。
晩年は徳川宗家の慶喜・家達らと親交を保ち、回顧録 『三十年史(よみがえ)』(咸臨丸航海と幕末海軍の証言録)を執筆。明治の海軍史研究の第一級史料となっている。
明治 34 年(1901 年)12 月 15 日、東京で死去。享年 71。
親族の著名人
- 子・木村 鐡太郎 — 旧幕臣として静岡で過ごす
- 木村家は旗本の格式で明治を生きた典型例
逸話・エピソード
福澤諭吉が一生「先生」と呼んだ恩人
咸臨丸の航海で従者として乗船した福澤諭吉は、木村摂津守の人格に深く感化された。福澤は明治期に入っても、勝海舟を「氷川の野郎」呼ばわりして容赦なく批判したのに対し、木村に対してだけは終生「木村先生」と呼び、慶應義塾の経済援助も再三にわたって受けた。木村が静岡で隠棲した後も、福澤は東京から金品や書籍を贈り続けたと伝わる。福澤『福翁自伝』には、勝海舟への手厳しい記述に対して、木村への感謝と尊敬が一貫して描かれている。
「徳川の旗本」として明治政府の出仕を固辞
維新後、明治政府は木村の能力を惜しんで再三にわたり出仕を要請したが、木村は一度も応じなかった。海軍卿として明治新政府で大きな役を担った勝海舟とは、ここで生き方が分かれる。木村は晩年に「徳川家の旗本として禄を食んだ身が、今さら新政府の禄を食むわけにはいかぬ」と語ったとされ、静岡で書物に囲まれて 30 年余を静かに過ごした。
青山霊園に眠る
木村摂津守の墓は、青山霊園 1種イ20号4側。同じ「1種イ」エリアには、勝小吉(1種イ4号22側、勝海舟の父、本日追加)が眠る。
咸臨丸で太平洋を渡った正副艦長 — 木村喜毅(青山霊園)・勝海舟(大田区洗足池)は別の地に眠るが、勝海舟の父・小吉と 咸臨丸艦長・木村が同じ青山霊園のイ区画で隣り合う配置は、江戸幕末から明治海軍へと至る日本海洋史の連続性を、地形に刻んでいる。
幕府海軍を率いた男が、明治の薩摩・長州軍人(野津道貫ら同じイ区画)と隣り合って眠る — 戊辰戦争の勝者と敗者が同じ霊園に共存する青山霊園の象徴的配置の一つである。



