ジョセフ・ヒコ(浜田 彦蔵)
じょせふ・ひこ
Joseph Heco
米国市民権を得た最初の日本人。漂流民から商人へと変じ、日本初の日本語新聞「海外新聞」を発行した「日本新聞の父」。
米国市民権を得た「最初の日本人」、新聞の父
ジョセフ・ヒコ — 本名・浜田彦蔵は、嘉永 3 年(1850 年)13 歳のとき紀州沖で遭難・漂流、米国船に救助されてサンフランシスコに渡り、安政 5 年(1858 年)、合衆国市民権を得た最初の日本人となった。
リンカーン、フランクリン・ピアース、ジェームズ・ブキャナンら 3 人の大統領と直接会見した稀有な日本人でもある。安政 6 年(1859 年)に米国領事館通訳として開港直後の横浜に帰国し、元治元年(1864 年)には 日本初の日本語新聞「海外新聞」を発行。「日本新聞の父」と呼ばれる。
漂流民が「日本人」と「アメリカ人」の二つのアイデンティティを生きた最初期の例であり、その人生は、開国前夜から維新後の近代日本までを縦断する稀有な歴史証言となった。
播磨の漁村から、紀州沖で漂流
天保 8 年(1837 年)、播磨国阿閉(あえ)村(現・兵庫県加古郡播磨町)の漁村に生まれる。母は再婚し、彦蔵は新しい父・浜田屋平左衛門のもとで育てられた。
嘉永 3 年(1850 年)、13 歳の彦蔵は摂津・兵庫の廻船 「栄力丸(えいりきまる)」に船員として乗り組んだ。同年 10 月、江戸からの帰途に 遠州灘で暴風雨に遭遇、船は紀州沖まで流される。50 日余り漂流した後、12 月にアメリカの帆船 オークランド号(Auckland)に救助され、彦蔵を含む船員 17 人はサンフランシスコへ運ばれた。
サンフランシスコ、ニューヨーク — そして洗礼
サンフランシスコ到着後、当時のカリフォルニアはゴールドラッシュの真っ最中。彦蔵らはロシアの船で 一度香港まで戻されたが、日本鎖国政策のため上陸が許されず、再び米国に戻ることになる。
少年・彦蔵を引き取ったのは、サンフランシスコの税関吏 B. C. サンダースであった。彦蔵はサンダース家のもとで英語と読み書きを覚え、安政 1 年(1854 年)、ボルチモアでカトリックの洗礼を受け、洗礼名「ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)」を名乗るようになる。
サンダースの引き合わせで、彦蔵はワシントンに上京し、当時の大統領 フランクリン・ピアース、続く ジェームズ・ブキャナンと面会。安政 5 年(1858 年)6 月 30 日、合衆国市民権を正式に取得した。日本人として米国市民権を得た最初の例である。
安政 6 年、横浜開港直後に米国領事として帰国
ハリス通商条約(安政 5 年/1858 年)で日本が開国すると、ヒコは米国側通訳として日本に派遣されることとなり、安政 6 年(1859 年)6 月、開港間もない横浜に上陸。米国領事館通訳官として勤務しながら、商人として日米貿易に進出した。
帰国した彦蔵は、米国市民権を持つ「洋装の日本人」として、日本社会の中で特異な立ち位置を占めることになる。井伊直弼・水戸藩主の暗殺、外国人襲撃事件など、攘夷の波が高まる中、横浜外国人居留地内に拠点を構えて活動した。
元治元年「海外新聞」 — 日本初の日本語新聞
元治元年(1864 年)6 月、ヒコは横浜で 「新聞誌」(後の「海外新聞」)を発行。米国の英字新聞から海外情勢を翻訳・編集し、和紙木版刷りで配布したこの新聞が、日本人が日本語で発行した最初の新聞である。
「米国大統領リンカーン暗殺の報」(慶応元年/1865 年)、南北戦争の進展、欧州諸国の動向 — それまで日本人が知り得なかった世界情勢が、初めて日本語で読めるようになった。「日本新聞の父」と呼ばれる所以である。
「海外新聞」は明治 2 年(1869 年)頃まで断続的に発行された。
リンカーンとの会見
慶応元年(1865 年)、ヒコは再度の米国出張中、ワシントンで エイブラハム・リンカーン大統領と会見した。すでにピアース・ブキャナンと面会していたヒコは、これで 3 人の米国大統領と直接会った唯一の日本人となる。
リンカーンとの会見の数か月後、4 月にリンカーンは劇場で暗殺された。ヒコは「海外新聞」でその速報を日本語で伝える、最初の日本人ジャーナリストとなった。
維新後 — 商人として、明治を生きる
明治維新後、ヒコは横浜・神戸を拠点に 貿易商として活動した。米国式の商慣行を日本に紹介する一方、明治 4 年(1871 年)には大蔵省顧問として 造幣寮設立にも関与。
明治後期は静かな商人として横浜・東京で過ごした。明治 28 年(1895 年)、自伝 『The Narrative of a Japanese』(英文 2 巻)をサンフランシスコで刊行。漂流民として米国に渡った少年が、米国市民となり、日本に新聞を持ち帰った一代の物語を、自ら英語で書き残した。この書物は現在も英米の幕末・明治史研究の一次史料として珍重されている。
明治 30 年 12 月 12 日、東京で逝去
明治 30 年(1897 年)12 月 12 日、東京で死去。享年 60。葬儀はカトリックの儀礼で営まれ、青山霊園に葬られた。
親族の著名人
ヒコは独身を貫いたとも、米国時代に妻帯したとも諸説あり、直系の子孫は確定していない。郷里・播磨町には「ジョセフ・ヒコ顕彰会」があり、生家跡が史跡として保存されている。
逸話・エピソード
リンカーンの握手 — 「あの大統領の手は驚くほど大きかった」
慶応元年(1865 年)、ホワイトハウスでリンカーンに会見した際の様子を、ヒコは後年自伝に詳しく記している。「あの大統領の手は驚くほど大きく、握り返されると私の手は子供のように小さく見えた」「東洋人の若者を珍しがるでもなく、極めて自然に椅子を勧めて、日本の様子を熱心に質問された」と回想する場面は、リンカーン暗殺前の数か月における大統領の人柄を伝える希少な日本人証言として、英米史家にも引用されている。
二重国籍を生きた男 — 「日本に骨を埋めるか、米国に戻るか」
晩年のヒコは、米国市民権を保持したまま日本で暮らし続けるか、米国に帰化先として戻るかを度々口にしたと、知人の福澤諭吉門下の門人らの記録に残る。最終的に「日本に骨を埋める」と選択した理由を「漂流民の自分を救ってくれたのは確かに米国だが、母の血の流れる国は一つしかない」と語ったと伝わる。日本人として生まれ、米国市民として育ち、二つのアイデンティティの間を生涯往復した彼にとって、この選択は静かながら重い決断であった。
「海外新聞」発行のための木版彫師探し
元治元年(1864 年)の「海外新聞」創刊にあたり、ヒコが最も苦労したのは英文を日本語に翻訳することではなく、和紙木版で印刷してくれる彫師を横浜・江戸で探すことだったという。外国の見慣れない地名・人名を木版に彫る経験のある職人はおらず、ヒコは自ら筆で書いた版下を持って何軒も歩いた。日本初の新聞は、こうして職人探しから始まった手作りの試みであった。
青山霊園に眠る
ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の墓は、青山霊園内の 外国人区画にあるとされ、墓石にはアルファベットで “Joseph Heco” と刻まれている。「最初の米国市民となった日本人」が、日本の青山霊園に眠るという象徴的な配置である。
13 歳で紀州沖を漂流した少年が、米国市民・通訳・商人・ジャーナリストと姿を変えながら、最後は東京で静かに息を引き取った。その人生の終着点が青山霊園であった。





