相楽 総三
さがら そうぞう
Sagara Sozo
戊辰戦争で赤報隊隊長として「年貢半減」を宣伝しながら東山道を進軍、新政府の方針転換で「偽官軍」とされ処刑された悲劇の志士。享年 30。
赤報隊隊長 — 「偽官軍」として斬首された悲劇の志士
相楽総三は、戊辰戦争(1868-69 年)初期に新政府軍の 別働隊「赤報隊」を率いて東山道(信濃から木曽路)を進軍した倒幕志士である。本名・小島四郎。
慶応 4 年(1868 年)1 月の 鳥羽伏見の戦い直後、相楽は新政府(西郷隆盛・岩倉具視ら)の 黙認のもと、「年貢半減」を宣伝しながら、東山道沿いに 倒幕の機運を煽る役割を担った。「年貢半減」は、旧幕府支配下の農民に新政府への期待を抱かせる 戦時宣伝として機能した。
しかし新政府は明治政府としての財政基盤を確保する必要に迫られ、「年貢半減」を撤回する方針に転換。相楽率いる赤報隊は 「偽官軍」として処断されることになり、慶応 4 年(1868 年)3 月、信濃国下諏訪で 逮捕・斬首された。享年 30。
「捨て駒」として使われた末に処刑された相楽総三の悲劇は、明治新政府の 権力獲得のための犠牲を最も鮮烈に物語る事件として、後年 「赤報隊事件」「相楽総三冤罪」として研究の対象となった。明治期に 名誉回復(明治 3 年/1870 年に妻・てるの遺族年金支給、明治期に靖国合祀)。
下総の郷士の家から、江戸へ
天保 10 年(1839 年)6 月 12 日(陽暦 7 月 23 日)、下総国相馬郡桜井村(現・茨城県取手市)に郷士・小島兵馬の子として生まれる。家は 3 代続いた郷士で、本姓は小島。
幕末、江戸に出て 国学・水戸学を学び、尊王攘夷運動に参加。長州藩士・薩摩藩士との人脈を築き、「浪士組」「薩摩藩士御預浪人」として活動した。慶応 3 年(1867 年)、江戸薩摩藩邸を拠点に倒幕の謀略活動を行い、新撰組らとの対立を経験。
慶応 3 年 12 月 25 日、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件で薩摩藩邸が幕府方に焼かれ、相楽は薩摩・京都に逃れた。
慶応 4 年 — 赤報隊結成と東山道進軍
慶応 4 年(1868 年)1 月、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北。新政府軍が東進を始める中、相楽は 「赤報隊」を結成、新政府(西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視)から 東山道先遣隊としての黙認を得た。
赤報隊は 3 番隊まで編成され、相楽の 1 番隊は 東山道(中山道)を進軍。下諏訪・木曽福島・松本などで「年貢半減」を宣伝し、農民の歓迎を受けた。「官軍が来た、年貢が半分になる」 — 戦時宣伝としては絶大な効果があった。
「偽官軍」事件 — 慶応 4 年 3 月の斬首
しかし新政府の 財政事情は深刻で、年貢半減を実施すれば財政破綻が確実だった。岩倉具視・大久保利通ら新政府首脳は方針を転換、「年貢半減を約束した赤報隊は偽官軍である」と布告して、相楽らを 逮捕・処断することに決定した。
慶応 4 年(1868 年)3 月 26 日(陽暦 4 月 18 日)、信濃国下諏訪宿で相楽総三ら 8 名の赤報隊幹部が 逮捕。取調も裁判もない簡略な処断で、3 月 27 日(陽暦 4 月 19 日)に 斬首された。相楽享年 30。
実行犯は 薩摩・長州系の新政府軍で、西郷隆盛(後の南洲翁)は赤報隊事件への関与を後年 悔いたと伝わる。
名誉回復 — 明治期以降
明治 3 年(1870 年)、相楽の遺族(妻・てる)に 遺族年金が支給された。これは事実上の 名誉回復であった。
明治後期から大正・昭和にかけて、「赤報隊事件」「相楽総三冤罪説」が歴史研究で取り上げられ、長谷川伸(歴史小説家)・司馬遼太郎(『燃えよ剣』『翔ぶが如く』など)らが小説や評論で相楽の悲劇を描いた。
戦後の歴史教育では、相楽総三は 「明治維新の影」「新政府の権力獲得のために犠牲となった志士」として、必修ではないが多くの教科書で言及される。
親族・関係者
- 妻・てる(小島てる) — 相楽の死後、遺族年金で残された子を育てた
- 子・相楽 鶴吉 — 父の名誉回復に生涯尽力
- 赤報隊隊士: 金原忠蔵・水戸浪士桜井常五郎ら、相楽と同時に処刑された 8 名
逸話・エピソード
下諏訪の刑場で詠んだ辞世
相楽は下諏訪で斬首される直前、辞世の歌を遺したと伝わる。「赤心を 尽くしし末の これなれば 心残らじ 国の為には」 — 自分を「偽官軍」と断じた新政府の命令にも、最後まで「赤心(赤誠)」を口にした 30 歳の志士の最期は、後年の歴史小説で繰り返し描かれる場面となった。
鶴吉の生涯をかけた名誉回復運動
相楽の遺児・鶴吉は父の処刑後、母とともに苦難の中で育った。長じて父の冤罪を晴らすため、明治・大正を通じて元老院・宮内省・陸軍省に再三嘆願を繰り返した。その粘り強い運動が実を結び、昭和 3 年(1928 年)、相楽総三は正五位を追贈される。父の死から 60 年、息子が老境に入ってからの名誉回復だった。
「年貢半減」を信じて歓迎した農民たち
赤報隊が東山道を進軍するとき、信州各地の村々では「官軍が年貢を半分にしてくれる」という噂が広まり、相楽の隊は農民から熱狂的な歓迎を受けた。米俵や酒樽を担いで沿道に並ぶ村人もいたという。その同じ村々で、わずか数十日後に相楽が「偽官軍」として斬首された報を受けたとき、農民たちは沈黙したと伝わる。
青山霊園に眠る
相楽総三の墓は、青山霊園 1種ロ3号1側。墓所は新政府(後の明治政府)の 名誉回復を受けて造営されたものである。下諏訪の斬首地にも別途 顕彰碑・墓が建立されている。
新政府が「偽官軍」として処断した志士が、その新政府を作った薩摩・長州元勲(大久保利通・伊地知正治・西郷糸子・吉井友実ら、青山霊園 1種イエリアで既登録)と同じ青山霊園に眠っている — この配置は、明治日本の権力獲得が払った犠牲を、地形にそのまま刻んでいる。
「赤報隊」の名は現代の 新撰組・赤報隊を扱う歴史小説・大河ドラマ(『翔ぶが如く』『獅子の時代』など)で繰り返し描かれ、相楽総三の 「捨て駒」としての悲劇は、近代日本史で最も切ない物語の一つとして読み継がれている。




